忍者ブログ
美術館・鉄道・お城・お相撲・お友達の話など趣味のブログです。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

6d57a173.jpg亀山城
通称  粉蝶城
構造  平山城
天守  現在なし
築城  関実忠
城主  関、岡本、本多、石川氏他
遺構  多門櫓、石垣、堀
   (多門櫓平成24年3月に補修完成予定)
開門  いつでも、城址公園
交通  JR紀勢本線亀山駅徒歩10分(坂道)
 
1265年(文永2年)関実忠によって築城、江戸時代は東海道の要所の一つで将軍が京都へ行く時此処で1泊して次の難所の鈴鹿峠を越えて膳所城か大津の宿で1泊して京都へ向かう重要なコースでもありこの藩主は二の丸御殿で住んでいた。広重の東海道五十三次の絵にも右側にお城が描かれています。
 
昔は同じ名前の藩があり紛らわしかった。嘘のような話で丹波の亀山城の天守を解体するようにの命を間違え伊勢のこの亀山城の天守を解体してしまった。
 
e1b801ac.jpg現在唯一残る多門櫓は高い石垣の上にあります。下の小学校から見れば見上げるような高さです。これは本来あった天守の場所に構築されたようです。敵の防御として横矢枡形になっています。横矢枡形は字の如く横合いから鉄砲や矢を撃てるように枡形に飛び出しています。
 
亀山城は基本的には土塁で作られています。櫓などだけに石垣が使われているだけのようです。石垣は野面積みです。右の写真の上部のシートが多聞櫓。
 
明治に入り藩知事を任命にあたり紛らわしい名前は変更されました。丹波の亀山は亀岡に紀伊田辺と丹後の田辺は丹後が舞鶴と云ったように整理されました。
 
たった一つの多門櫓を見に行きました。JR駅ではわざわざ案内の紙まで戴いたのですが現在修理中で中が見えません。これしかないのにちょっと言ってくれればがっかりしなかったのに。暑い日で非常に残念でした。広重の絵でお城を想像するしかありません。絵の右上がお城。(浮世絵はウィキペディアより)

 
人はそれぞれ性格が違いますが今回ではJRの(亀山、郡山)職員より近鉄や伊賀鉄道の人の説明がたまたまかも知れませんが親切でした。多門櫓は平成24年3月に補修が終わるようです。
 
 

 


 
PR
aa8913ed.jpg大和郡山城
通称  雁陣之城
構造  平山城
天守  なし
築城主 筒井順慶
主城主 筒井、豊臣、水野、柳沢氏など23代
遺構  石垣、堀
再建  大手向櫓、東櫓、大手門
交通  近鉄郡山駅徒歩5分 無料
 
織田信長の後ろ盾で筒井順慶が大和を統一した。
この郡山には筒井城と郡山城があったが天正8年の織田信長の一国一城令により筒井城は破却、翌年に明智光秀の普請目付で大規模な城郭の建設が始まる。天正12年(1584)に筒井順慶死去により養子の定次は秀吉の命により伊賀上野城に転封。
 
翌年豊臣秀長が大和の国、和泉国、紀伊国三国100万石で入城。大改修が始まる。しかし天正19年秀長死去、その養子秀保も急死して断絶、100万石のお城は終焉する。
 
関ヶ原後郡山城の多くの建物は徳川伏見城へ移築され、城主は10万石大名が入れ替わっていく。江戸後半の甲府から来た柳沢吉保、吉里親子により養蚕の持ち込みによる奨励、趣味の金魚も運び金魚養殖が盛んになる。維新後は職を失った武士の仕事にもなり、現在でも日本最大の金魚の産地になっています。

24629386.jpgced9279a.jpg天守台の裏手には逆さ地蔵といわれる、石垣の間に逆さになった地蔵が埋もれていたり由来の変わった他の石もあり、この地蔵を弔うため石垣にはお地蔵様が奉納されています。
 
秀長の時代、奈良には石垣になる良質の石が少なく、奈良一体から強制提供させ、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども石垣の石にしたようです。
 
100万石の秀長入城には郡山を奈良一の城下町にして興福寺、東大寺を睨むこの場所が適地とされていたかのようです。天守台から追手向櫓、東櫓、法印曲輪跡などが見えます。
 
bea65419.jpgd824d463.jpgこの天守台は、5層の天守があったには、かなり小さく感じました。そして100万石のお城があったとはとても思えない。勿論秀長後は10万石程度でしたし昔の縄張りではないでしょうが。

誰もいない天守台はロマンを感じるより寂しさの方が強かった。それはこの下にお地蔵様が埋もれたりしているのを見た後だからだろうか。とても竹田の岡城のような感じにはなれなかった。


 
f75bed01.jpg和歌山城
通称  虎伏山
構造  平山城
天守  復元連立式層塔型3重3階
築城  豊臣秀長
城主  豊臣氏、浅野氏、徳川氏
遺構  門、塀、石垣、堀、庭園
開門  9時~17時30分 入城料400円
交通  JR阪和線和歌山バス市役所前下車
 
このお城は、天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州を平定し弟の秀長に築城させた。秀長は隣の大和郡山に居城し桑山重晴を城代とし置く。その後、慶長5年関ヶ原の戦いの功により浅野幸長が入城、元和5年(1619)家康の第10子徳川頼宣が55万5千石で入城し、此処から水戸、尾張と並ぶ御三家紀伊家が始まる。8代将軍吉宗も此処の城主だった。
 
頼宣は城の大改修、城下町の拡大などを大々的に始め幕府より謀反の嫌疑がかかる。そのため縮小した。このお城の特徴の一つとして石垣が時代と共に様々な積み方をしている事も一つです。面白いのは浅野の時代だけ石垣に様々な刻印されたものがあります。裏坂から本丸へ上がるところで良く見られます。
 
180f90f7.jpg藤堂高虎は築城の名手ですが特徴としては石垣です。大体防御として、とてつもない高石垣です。このお城も紀の川、和歌川によって防御されていますが山の上だけでなく麓から石垣が積まれ防御態勢が取られています。
 
お城は漢字で土に成るですから当初は土塁で囲い空掘などで防御をしていましたが信長の時代から鉄砲が有力な武器となり石垣で囲うようになりました。
 
394fcdad.jpg79d1bc8b.jpgb62c7d05.jpg積み方には古いタイプが「野面積み」で様々な石を組み合わせて積んでいく方法です。歴史のあるお城はこの方法が一般的です。「打ち込みはぎ」と云う方法は石を削って平らな面を出来るだけ作り隙間を少なくして行く方法で隙間には小さな石を入れて行きます。「切り込みはぎ」は成形した大きな石を隙間なく積み上げる方法です。
 
575a0f6c.jpgどの方法も高さが同じ位の石を積むと横にラインがあるように見えるようになりこれを「布つみ」とも言います。一番難しいのは隅です。長方体に加工した石を縦、横と交互に積み上げて行きます。(算木積み)変わったのでは彦根城のように濠には石積みしその上に土塁を乗せまた石垣を組んでいます。
 
石垣は防御線ですから外には角度をつけ中は緩やかな角度にしながら見た目もきれいな石積みをしなくてはなりませんし、時間で雨水が溜まりそれを吐き出す水はけの良い石垣積みの技術が必要です。(写真は新しい石垣積み)
 
お城は街の何処からも見えそのシンボルにならなくてはなりません。和歌山城は、木々が伸びすぎて見える所と見えないところがあります。夜ライトアップしているので泊まったホテルからはとてもきれいでした。
 
しかし、7時過ぎに市役所前でバスを降りると周りは真っ暗、お城は何処だ、泊まるホテルは何処だと探し廻りました。虎伏山という小山にお城はあります。
 
cdb40dad.jpg明治の廃城令により殆どの城は壊され、そこが今は多くが官庁になってたり学校になっています。夜になれば人がいません。真っ暗です。折角の観光のシンボルで復元したのですがこれでは意味がない所が和歌山に限らず多々あります。
 
今回は表坂、裏坂がある事を知らず裏坂から攻めました。裏坂は表坂に比べればきつい坂です。でも井戸があり石垣の刻印なども裏坂から見えます。私の人生と同じ裏から攻め入ったのが正解だったのかも。(苦笑)攻め入る方は行きを表から帰りに裏坂をお勧めします。
 
この日も暑く天守からの風は気持ちがよく紀ノ川も良く見えます。

和歌山はラーメンのお店が沢山あるようですが夜着いて朝、お城攻め入りですから残念ながら食べずに終わりました。和歌山の路面電車も大分前に廃止されたようです。また何十人と亡くなられた被害の大きい台風十二号の影響で勝浦辺りはまだ復旧されてなくバスでの乗り継ぎになっているようで台風被害の義捐金募集もやっているようです。
 
 

 
本来は忘れないうちに今週制覇した和歌山城、郡山城、伊賀上野城、亀山城、津城と写真も整理して書いていかなければならないのですがその前に今回の城に共通する築城主を書かなければと思います。

そして戦国の世であり、何度も浪人をしながら最後は外様でありながら家康の枕元、相談相手にまでなった藤堂高虎を忘れないうちに書いておきます。細かい事はググレば出ますので此処では違う見方で藤堂高虎を書きます。築城の名手だけでなく戦国の世に何度も主君を変えるという生き方の人です。


築城の名手と言うと一番に黒田如水(黒田官兵衛孝高)秀吉の軍師、キリシタン大名で有名です。この人の縄張りは、大阪城、姫路城、妻鹿城(めが)、山崎城、中津城、高松城、広島城、名護屋城、福岡城、梁山(ヤンサン韓国)など。多くのお城に絡み、特徴としては、実践用でありながら無駄の無い必要以上の高垣を築かない。

二番目がこの黒田如水を親父オヤジと慕っていた加藤清正、秀吉の子飼いの名将、そんなに多くは築城をしていないのですが熊本城ひとつで名手の地位を得ています。勿論天下普請での割り縄張りなど多くの城に絡んでいます。熊本城、八代城、韓国の機張キジャン、西生浦ソセンボなど熊本城のように地盤の悪い地への独特な曲線的な高石垣。

1f6dd435.jpg三番目が藤堂高虎です。お城は宇和島、今治、篠山、津、伊賀上野、丹波亀山、膳所城など、そして変わっているのが日光東照宮がある。詳細は後に。

最初は浅井長政に仕える。織田信長に小谷城で浅井長政が敗れると浅井家の旧臣に何人か使える。何回か浪人。

信長の甥信澄の家臣になる。また浪人、その後秀吉の弟秀長に使え3000石。中国攻め、賤ヶ岳の戦い、小田原攻め等の功績により1万石の大名になる。猿岡山城、和歌山城の築城に普請奉行に、天正15年の九州の役での功により2万石。

天正19年秀長が死去すると甥の秀保に仕える。後に秀保死去により高野山へ出家。しかし、秀吉にその将才を惜しまれ還俗、5万石を追加され7万石で宇和島の大名となる。

慶長の役、朝鮮との海戦の功により8万石となる。

慶長3年秀吉死去から家康へ急接近、家康の会津征伐に参戦、織田秀信の岐阜城攻め、関が原本戦、西軍の将への東軍への寝返り作戦等により宇和島、今治20万石へ加増。

徳川家の重臣として江戸城改築、津、伊勢一国22万石(上野城、津城)外様大名でありながら譜代大名格になる。大阪冬の陣では長宗我部を破る功績に32万石に加増。

家康没後2代秀忠に仕えながら上野城、津城の城下町建設など藩政の確立に努める。その間、清正亡き後の熊本藩、高松藩、会津藩など幕府の命により後見人になる。75歳の生涯を閉じる。

津には高虎の高山神社、上野の寛永寺に墓がある。

長々と書きましたがこの生き方、戦国時代は主君と共に戦い命を預けその主君に仕えるのが訓とされた時代ですがこの人は此処だけで7回以上も主君を変えています。今の時代のサラリーマンはどうだか分かりませんが家康が難しい相手には「一の手は高虎、二の手は井伊直孝」と言わしめています。

団塊の世代の私には好きな生き方です。私達も生まれた時から競争社会でした。人数が多いのですから学生、就職、社会人といつでも競争です。高虎は特技として城の縄張り、築城があり私には無かった。それでも会社の大きなプロジェクトに何度も参戦できた事が今の財産になっていると思っています。

今の会社は何時合併があったり社長が変わったり、倒産したり、終身雇用崩壊、将来の不安もあり中々冒険もしづらく当たらず触らずになるんでしょうが。

是非とも果敢に挑戦もしてほしいと思っています。その時の眉間の傷は将来きっと役に立つ時が来ます。それには若い時から地力を付けといて欲しい。何でも良いからこの分野は負けないものを。将来への基本的考え、それに対する戦略が何時の時代でも大切だと思います。いつも見に来てくれる君に期待しています。

そして最後に高虎の城及び普請・奉行役のお城
自身の城 宇和島、大洲、甘崎、今治、津、伊賀上野
普請 赤木、和歌山、大和郡山、聚楽第、豊臣伏見、膳所、徳川伏見、二条、丹波篠山、丹波亀山、江戸、駿府、名古屋、淀、徳川大阪、日光東照宮、寛永寺その他、韓国でも築城、高虎の特徴は高い石垣、攻めも得意ですが守りもしっかりしています。

太字が今回制覇したお城です。5城廻りましたがそのうち4城ですので最初に藤堂高虎を書いておきました。そして昨日は東照宮にも参拝しました。
f75bed01.jpg1b82d094.jpg99043ae6.jpg5d9e1d98.jpg


和歌山城      伊賀上野城   津城櫓       郡山城櫓
 

82a69510.jpg丸岡城
通称  霞ヶ城
構造  平山城
天守  独立式望楼型2重3階
築城主 柴田勝豊
築城年 天正4年(1576年)
城主  本多、有馬氏など17名
遺構  現存木造天守、石垣

天正4年柴田勝家の甥勝豊により築城、天正10年清洲会議により勝豊は長浜城へ、天正11年柴田勝家は北ノ庄城で秀吉により滅ぼされる。丹羽長秀の所領となる。その後何代か城主、城代がかわり越前騒動や福井藩2代目松平忠直の不行跡を理由の福井藩分割を経て丸岡藩となる。寛永元年(1624)本多成重が藩主となる。元禄8年(1695)糸魚川藩より5万石で有馬氏入封。

このお城は勝豊築城から3年で上杉勢により焼失、昭和23年の福井震災で倒壊しています。昭和30年に倒壊材で復元修理しています。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を乗せていて屋根は笏谷石が乗せられています。北ノ庄城なども同じだったそうです。

554937b8.jpg石垣は野面積みです。中の階段ですが極端に言えば直角、階段に入る幅はバックを背負っていると入れるか入れないかの幅です。急ですからロープがついています。建物自体が重文ですから手すりをつけると改造になってしまいます。

このお城にもミステリーが伝わっています。1、石垣を作る時何度も崩れるので子供二人の片目の後家「静」を人柱とした。その条件が子供を侍に登用する事だったがしなかった。夜な夜な片目の蛇がでる。2、敵の襲来の時井戸より霞が出てお城を隠した。その井戸やお静の碑等もあります。

一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ 本多重次が長篠の戦いから妻へ送った手紙。丸岡では毎年テーマを決めて公募をしています。その綴りの「日本一短い母への手紙」はベストセラーになっています。入選作がお城入り口に沢山掲示されています。城の上り口には歴史資料館もあります。

この城は日本最古と地元では言っています。しかし、その根拠があいまいでかといって逆の証拠もないようです。専門家の中では「1階を下見板張とし3階では柱や長押を白木のままとする古式に見えることから勝豊時代の現存最古の天守とされています。実際には1階と2階の通柱がなく3階の廻縁は見せかけで層塔型天守の特徴を有している事から慶長18年本多成重によって造営されたのではともいう。しかしその年代の絵図には天守が描かれていないという問題もある。結局築年数不明。

d3512035.jpg城下の堀は現在一部しか残っていません。円光寺にキリスト燈篭があります。これは島原の有馬氏の流れの人が隠れキリシタンとしてこの地にも来ていたんだということでしょうか。




 これで現存木造天守のお城12城は廻りました。ちょっとした感動があるかと思いましたがそれもなくちょっと、あぁ終わっただけでした。

山城は年齢的のもかなり限界に来ています。1つだけなら良いのですが折角行くんだからとお城なら何でもと言った感じで数を周りとやはりきついです。元一ノ矢の松田さんの腰トレや週に数回のトレーニングをやっていますがやはり夏で階段は厳しいです。

地方へ行くと和式のトイレがそれも厳しくなってきます。歩いてる程度じゃ駄目ですね。もう椅子の生活が長いので生活習慣から長い年月で自然に足腰がやわに成っているようです。これからも現存天守に拘らずお城めぐりは郵便局スタンプと共にやっていこうと思っています。


だって馬鹿と煙は高く上がるそうです。天守からの景色と風は何とも言えません。

今までのお城の参考文献

日本の名城がわかる本  本山一城  リイド社
日本の百名城        八幡和郎  KKベストセラーズ
日本の城           中井 均  山川出版社
日本の城      監修 西ヶ谷恭弘  世界文化社
名城地図帳         大沢広彰  学習研究社
日本の城封印されたミステリー 平川陽一 PHP研究所

この他に各地の観光協会のパンフ、ちらし 

 

大野城越前大野城
構造  平山城
天守  連結式望楼型2重3階
推定復興天守
築城主 金森長近
築城年 1575年(天正3年)
城主  金森、松平、土井氏
遺構  石垣、堀

1575年織田信長から越前一向一揆平定により金森長近が3万石を与えられ亀山に城郭を築いた。元は複合式連結天守であったが1795年焼失、天守以外は再建されたが明治に廃城になり1968年(昭和43年)にコンクリート造りで推定復興した。

d4e0d277.jpg亀山の山頂を平坦にして本丸を作り東側に二の丸、三の丸をめぐらせ、南・北・東には人工の外堀、西に赤根川、各所に沼があり天然の堀として守りを固めていたそうです。石垣は野面積み。連結の小天守?天狗櫓も再建。天守の石垣と途中の石段の石垣の年数がかなり違う。

藩主が頻繁に変わり(明治まで19人)藩財政難に至る。土井家7代目利忠は財政改革を行い借財を返還。藩の借財の整理、積極的な殖産事業を行なう。変わっているのは直営の藩店大野屋を大阪、函館に開設し特産品を販売。

将来を見据えた誰でも入れる藩校(明倫館)で洋学の奨励、洋式帆船「大野丸」を巡航し幕府の許可を得て蝦夷地屯田を行い準領地にした。

城下は碁盤の目に整理され多くの湧水地があり、武家屋敷、旧家が整理保存されています。此処では北陸の小京都と言っています。でも金沢があるから福井の小京都位でしょう。また朝市が金森時代から盛んに始まったそうです。

99d454e6.jpgお城は南登り口と西の亀山公園口からあります。今回は工事中との事で西側から登りました。標高240Mの山です。人工の急な階段が400段はあったでしょうか息切れしびっしょり汗をかいて登りました。時間的に10分位でしょう。夕方で私以外誰もいなくひっそりとしています。

此処は雪深いところですから12月から3月末までは閉館しています。また、今月も工事の為何日間休館をするようです。行かれる方は越前大野市のHpを確認してから行かれますように。

越前大野までの間には一乗谷があります。朝倉家の遺跡が残る地です。戦国時代一乗谷と一乗山に本拠を定め5代続いた朝倉氏、文化的に円熟した城下集落、防御力に優れたお城があった。機会があれば城廻人として見たい所です。

駅にも水があり冷たくとても城攻めの後には美味しい水でした。昨年の430年祭りからのラッピング列車で心地よい疲れと共に福井へ。

築城430年祭りのユーチューブ
http://www.youtube.com/watch?v=GyNYABmX5bM

 

 

0a58b8bd.jpg 岡山城
通称  烏城
構造  平山城
天守  複合式望楼型5層6階
1966年鉄筋コンクリート復元
築城主 宇喜多那直家
城主  宇喜多、小早川、池田氏
遺構  櫓、石垣、堀
重文  月見櫓、西の丸西手櫓
 
天正9年宇喜多直家が亡くなり10歳の秀家が継ぐ。豊臣秀吉にとてもかわいがられ天下人秀吉より父の遺領の備前、美作の他に備中の一部も貰い57万石の大大名になりその当時の城から(現在地より300m西の高台にあった石山)秀吉の勧めで現在の場所へ(岡山のいわれ)旭川の流れを変え3重の濠を作り5層6階の城を築く。
 
城は安土城を模したと言われている。不等辺5角形をしている。かっては3層櫓が10基、2層櫓が26基もあり壮観なお城だったようです。
関ヶ原の戦いでは西軍についたため秀家は八丈島へ、代わりに小早川秀秋が入封、しかし1年余りで急死、池田輝政の二男忠継が28万石で入封、その後池田家本家が入封、忠継の家系は鳥取城へ移封となる。
 
c2f23f79.jpg天守石垣はここも野面積みで月見櫓は石を平らに加工した割り石で石の隙間は詰め石をした打込萩といわれる工法です。月見櫓は本丸内で唯一戦災から免れた建物で池田忠雄によって建てられた。名称は月見櫓ですが中は武器の貯蔵庫で北西の防御をする為のものだったようです。
 
岡山城の旭川の前には日本三大名園と言われる後楽園があります。名園と城が隣合わせは彦根城もそうです。
 
場所は離れていますが池田光政の創立した閑谷学校があり講堂は国宝になっています。江戸初期から一般にも開放した学校。藩主が移っても学校は独立して運営されるよう仕組みになっていたようです。藩校は何処でもありますが岡山の運営は時代の先を行った運営だったようです。池田光政の名君と言われる所以だそうです。
 
aa43761e.jpg岡山城は駅から歩いても20分位ですが今回は岡電に乗って行きました。時間的に今回はお城だけで後楽園は散策ができませんでした。まぁ何回か来ていますが庭園は季節によって変わりますのでまた次回時間があれば来たいと思っています。


黒の豊臣、白の徳川と言われますがその典型のお城です。
f33f71ea.jpg

昔の天守の礎石群 この上に大きな天守閣を建てています。
同じようなものは安土城跡にもあります。何となくロマンを感じます。
b5c36bb4.jpg 松江城
通称  千鳥城
構造  平山城
天守  複合式望楼型4重5階地下1階
築城主 堀尾吉晴
城主  堀尾、京極、松平氏
遺構  現存木造天守、石垣、堀
 
松江市北部の宍道湖北側の亀田山に築かれて堀の周りを囲む堀川は宍道湖と繋がっています。天守から宍道湖を望む事が出来ます。
 
関ヶ原の戦功により堀尾氏が亀田山に築城、その後小浜藩の京極忠高が26万石で入城、城の全容が完成。京極氏も世継ぎがいなく、1638年信濃松本藩から松平直政が18万6千石で入封。以来出雲そばが名物に。
 
天守に地下1階の平屋の付櫓を付けてあります。この櫓は入口に鉄板張りの戸があり中は枡形になっています。2重目には石落としを張り出し、1重目と2重目の間には77ヶ所の鉄砲狭間があり、黒く厚い雨覆板の下見板張りとなっています。
地下の井戸は現存する唯一のものだそうで、最上階は内部廻縁高欄で遠方を見張れるようになって実践本位のお城です。屋根には木彫銅張りの2.2Mの鯱が乗っています。
 
f4653922.jpg石垣は昔の野面積みです。天守への階段は防火と防腐の為厚い桐の板を使用しています。
 
現存の外堀を現在遊覧船が出て、水辺からのお城や松並木、武家屋敷、旧小泉邸などを見ながらめぐる事も出来、今年春にオープンした松江歴史館も堀沿いにあります。短時間で松江の歴史が解りますのでお勧めです。
 
今年は開府400年で1年間イベントが色々開催しています。最近お城に多いおもてなし隊も此処では若武者隊、舞姫隊とあるようですが私たちの入った時間は居ませんでした。ゆるキャラの「あっぱれ君」はこの暑い中可哀そうですが頑張っていました。
 
水の都松江は城下町も整備されています。また松平不昧公が茶道具収集、相撲の雷電為衛門をかかえたりした風流な大名の影響でお茶、お菓子など美味しいも9255d0d5.jpgのが今でも残っています。

松江では自転車で回りました。水の都、整備された城下町、食べるものも美味しく駅から離れていてもスイスイと町並みを楽しみました。もう少し自転車道にやさしいと良いのだが。

島根は竹島問題を抱えています。「帰れ、島と海」という看板が目に入ります。国の問題なんでしょうが東京にいると忘れてしまう問題です。
竹島資料室
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima03/


壱岐対馬へ行った時はもう此処は韓国ではないかと思うくらい韓国人が多く、店のメニューもハングルで書かれています。ある意味国境の町です。

 
58c721a1.jpg備中松山城
通称   高梁城
構造  連郭式山城
天守  複合式望楼型2重2階
築城  秋葉重信 1240年
城主  三村、水谷、板倉氏
遺構  現存天守、櫓、塀、石垣


私にとって現存天守12のお城のラス前になります。三大山城の1つですがこのお城しか現存していません。また現存天守のある12のお城で1番高い所にあります。(三大山城、大和高取城、美濃岩村城

ただ、このお城は戦国時代のお城ではなく近世城郭です。城のある臥牛山は4つの峰からなり小松山に本丸、二の丸、三の丸が階段状に作られ大松山、天神の丸、前山にも遺構があるようです。現在は崩落により本丸から大松山方面へ行く事は出来ません。24年春の復旧予定。

この城を攻めるにはまず麓にあり江戸時代に作られた御根小屋と呼ばれる御殿から1時間歩いていきます。私達は8合目のふいご峠までタクシーで行きました。そこから山登りになります。20分から30分急な坂と石段になります。この為に半年間トレーニングをしてきたようなものです。

行きは楽なほうという事で登りましたら途中工事の為の通行止めになっていました。この城を攻める為にわざわざ前泊して朝一で来たのですから冗談じゃないと言う事でそのロープを越えて歩き始めました。

工事の土嚢が積み上がっていて歩きにくかったですが何とか途中からもう一方の道と合流、工事の人の話では前の台風の時に石段が崩れ砂が流れ出しているとのことでした。
a301f379.jpg

白い部分が土嚢の上にまた砂が乗っています。これを修復するにも大変な労力と時間がかかりそうです。
この道でなければもっと楽だったかも。

前日の夜、雨が降ったので道はぬかるみ、霧が出て陽は射していないのですがシャツはぐっしょり、途中何度も野猿に注意との看板が出ています。凶暴との事で目を合わせないと書いてありますがいざ出たらどうなるんでしょうか。

思ったより簡単に、まぁ初日の元気でと言ったほうが430Mの山頂に到着、今だ天守は見えず。迎えてくれたのは天然の岩盤を組み込んだ高石垣、大手門跡の後方にそそり立っています。何時落ちてこないか心配になるような不安定さ、威圧感があります。
16f55a38.jpg

城主は多く変わっていますが天正2年(1574)三村元親は毛利氏から織田へ寝返り、曲者小早川隆景により落とされ毛利家の領有になります。

慶長4年(1600)関が原の戦いで西軍についた毛利家に変わり徳川は城番に小堀正次、政一(遠州)になりこの時代は不便な山に行く事もなく麓に作った御根小屋(御殿)に住んでいたようです。遠州作庭が頼久寺にあります。

写真の高石垣は木々の根っこが石垣の間に入り込んで木の成長での崩落、また地震でもあれば崩落をしてしまう危険があるようです。この高い石垣で枡形虎口になっていますので敵もびっくりしそうです。矢、鉄砲、石など飛んできそうです。

備中高梁は山陰と山陽の交通の要所ですから戦国時代は争奪戦が江戸期には商業の中心地として小堀遠州が地区割り、税の免除など地域発展に貢献したようです。水谷家に世継ぎがなく断絶の際この城は忠臣蔵の赤穂藩浅野長矩が城の受け取りにあたり大石良雄が城番となった。

戊辰戦争では朝敵とされ、無血開城をした。戦争をしていたらこの天守はなかったかもしれない。びしょびしょのシャツに2階建てですが天守からは遥か下に霧の切れ間から備中高梁の町が見え登った者へのご褒美の心地よい風が何とも良かった。

麓には御根小屋跡(現高梁高校)、武家屋敷、頼久寺、商家資料館、歴史美術館などがあります。また八ッ墓村、男はつらいよ、バッテリー、県庁の星など多くの映画ロケ地になっています。朝の散歩で偶然行った薬師院は山門、本堂までの階段など何となく個人的に好きなアプローチだなぁと思っていたら2回目の寅さんロケ地でした。

地元では吹矢べんがら、お城、ロケ地が自慢のようです。特に寅さん映画が2回もロケに来たの此処だけだそうです。そして日本一高いところの現存天守だそうです。そういいながらお城には昔に1度行った程度のようですが。

今まで行ったお城で当然一番不便で高い所にあります。伯備線には何度も乗っていますがいつも通過していました。四国は1週間で8つのお城を巡りましたが後半の宇和島城、大洲城の方が疲れたような気がします。後残すは福井の丸岡城のみになりました。さて何時攻めるか。
 
天気予報に騙されたようで今週も暑い日が続いています。そして昨日本日とこの暑い中、来週からの旅行へ行く為に植木鉢を玄関横に移動させました。狭い裏に高いところや色々置いていますがいない間水をやってもらう為簡単に蒔ける所への移動です。

数的には対してないのですが重かったりしてついでに剪定もしたりで2日掛かりました。そして今回の旅行の行程表も時刻表を見ながら作り直しました。最初は2人でしたが最初の2泊は3人になりました。

それぞれ行きたい所がありますからA案、B案と二種類作りました。3人ともまずお城を入れること、温泉をと条件があります。とりあえず、最初に備中松山城を攻める。私はこれで当初目的は達成です。ここを達成すれば後は福井の丸岡城だけになります。今回は松江城、岡山城も入れてあります。

温泉は今のところ宍道湖温泉を入れています。玉造も考えましたが宍道湖温泉は私は泊まった事がありませんので特権で決めてあります。晴れれば夕日がきれいなはずです。そして電車好きですから泊まる所もホテル一畑にしてあります。別にデニハに乗ろうとしているわけではありませんが。

今週には集まりコース確定の打ち合わせをします。それの資料作りもやっています。1人はまだ現役の社長をやっていますから4日間は休めないようです。彼らも備中高梁をこなせば後は一人でも安心して回れると言っています。

現存木造天守は12あります。番号は古い順(太線は国宝)
1、彦根城  複合式 天守の高さ15.5M
2、姫路城  連立式 45M 平成の修復中
3、丸岡城  独立式 12.5M 此処は登っていない。
4、松江城  複合式 22M
5、松本城  連結式 25M
6、犬山城  独立式 24M
7、丸亀城  独立式 12M
8、宇和島城 独立式 16M
9、備中松山城 複合式 11M 一番低いが1番高い山の上に
10、高知城  複合式 18.5M
11、弘前城  独立式 14.5M
12、松山城  連立式 20M

落ちている体力、脚力を維持させる為暑いのにめげずトレーニングをやってきました。親友二人の方が私より体力もあり迷惑をかけないよう頑張ってきました。もうすぐその結果が出ます。今日も空いた時間を見てたった1時間ですが頑張ってきました。


マイLady's バロン
今日のバロン
獲物を狙うハンターになっています。アメリカンショートヘアーの本能なんでしょうか。
獲物はハタキなんですが。   

フォト ままりん
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
カウンター
最新コメント
[09/23 大町阿礼]
[04/17 aibiki]
[04/16 aibiki]
[04/15 aibiki]
[04/14 aibiki]
プロフィール
HN:
パパリン
性別:
男性
趣味:
なんでも収集
ブログ内検索
アクセス解析
パパリン日記 城 Produced by パパリン
黄昏 Designed by ブログテンプレート がりんぺいろ
忍者ブログ [PR]
free pictures