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美術館・鉄道・お城・お相撲・お友達の話など趣味のブログです。
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山陽新幹線開業40年記念入場券を求めて9日に前泊をしました。凄い人気だろうと思い新大阪は諦め、先の西明石に宿泊予定。これ以外はすべて未定。

 

一人旅ですし記念切符発売は翌朝の朝ですから月曜日は朝早く出て京都から山陰本線で福知山城でも攻めて、帰りは福知山線で尼崎に出てお泊りと勝手に決め込んで行きましたが昼には雨が降ってきました。

 敵の雨の襲来は厳しい攻めで今回は福知山城は諦め、確か3月に姫路城が完全オープンとニュースで見たことを思い出し姫路に向かう。

 

昨年も姫路城を見に来ましたが大天守が真っ白でしたが残念ながら天守には入れずでしたので丁度いいと雨の中向かうも、結果完全オープンは27日からとの事、またも外観だけしか見られず。敵はしぶとい。またも攻め入られず。いやぁ私がいい加減だけだが。

 

帰りがけ遅い昼食を兼ねとんかつ屋にはいるも大当たりでつまみも取り一人昼酒、昨年も買った美味しい蒲鉾屋で夜のつまみを買って夜は早寝と決め込む。

 

やはり旅は雨だと全部が狂う。最も今回は一人なので行程をまともに作っていなかったのが敗因だったかも。雨あられの攻撃はしぶとかった。

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諏訪高島城

別名 諏訪の浮城

構造 平城

天守 望楼型三層

城主 日根野高吉、諏訪氏

遺構 石垣、堀、門

再建 天守、櫓、門、塀

かっては諏訪湖に突き出ていた水城だった。諏訪湖干拓により水城の面影はない。城主は諏訪頼忠が豊臣秀吉による徳川家康関東転封により従い武蔵野国へ、その後関ケ原の戦い後恩恵により旧領諏訪に戻る。以降10代にわたり明治まで続く。

 

現在の天守は屋根が杮葺きだったのが銅板に、窓の位置、大きさ、最上階の回廊はなかったが2ヶ所出来ている。

  

諏訪頼重は武田信玄に敗れその姫、由布姫は信玄の側室になり勝頼を産んでいる。また徳川家康の六男松平忠輝、吉良上野介の息子も監禁されていたりします。

 

今回久しぶりに訪れましたが内堀は凍り付き雪が積もっています。コンパクトな天守ですが中々の寒い風景です。天守閣は場内から通りの車道まで突き出ているのが他のお城と違います。(天守台は昔のものです)お城は桜が一番似合っていますが雪も良いです。

 

冠木門、川渡門、諏訪護国神社の横の土戸門、本丸御殿跡は庭園になっています。

諏訪湖は有名な全面凍結からなる御神渡りはまだまだのようです。マイナス10度が3日は続かないと出来ないようです。この日はマイナス6度との予報でした。

 


松本城

別名 烏城

構造 平城

天守 複合連結式層塔型、5重6階

城主 小笠原長棟、石川数正等

遺構 現存天守(国宝)、石垣、堀、土塁、土蔵

再構築 黒門、太鼓橋

 

豊臣のお城の特徴で黒い、そして天守と乾小天守、辰巳附櫓、その隣に月見櫓が繋がっている。

 

久しぶりの現存天守で靴を脱いで急な階段を上がる。当然、背中のリックが引っかかったり、用意されているスリッパは普段は履かないのだが今回は冷たく寒いのでスリッパを履いたが足に合わず上り下りに苦労した。

  

このお城のちょっとつまらないのは最上階に回廊がなく景色が見にくい。当然実践型のお城ですし内堀と天守の間はかなり離れて作られている。やはり建設当初のお城は各階の梁など見ごたえはある。

 

その分月見櫓は開放的になっていて夜ここで月見も良いだろうなぁ。このお城は何度も来ているが見学通路が以前と変わったのだろうかそれとも私が忘れているのだろうか。

 

城に入ってすぐに博物館がある。城の入場料に含まれているがあまり見学者はいない。1階の常設展示は資料館レベルで博物館という名前には?2階には今回松本出身の太田南海の企画展示。

 

彫刻家ですが絵も描かれたそうで和菓子屋のパッケージも描かれています。彫刻小品ですが素晴らしい作品でした。


佐賀城

別名 栄城、沈み城

構造 平城

天守 非現存

城主 鍋島直茂

遺構 鯱の門と続櫓、石垣、堀、土塁

再建 御殿

 

佐賀は平らで起伏のない平野でその為堀の幅は50mとも70mと言われる防衛線となり、城下にも縦横に水路が作られて今でもかなり残っている。
 

  

明治時代の佐賀の乱で大半の建築物は鯱の門、続櫓を残し消失している。現在は木造で本丸御殿が忠実に再興されて歴史博物館になっている。見学は案内までついて無料。館内で鍋島直正生誕200周年の大閑叟展が開催中。

   

鯱の門には鉄砲の弾傷が沢山ついています。城下には小倉から長崎までの長崎街道がのこぎりの刃のようにして残っている。

   

長崎警備の任を通じて鍋島直正(閑叟)は早くから西洋事情に通じていて早くから洋式兵器の導入と技術開発の力を入れていた。蒸気船、銃砲を購入する一方反射炉を作り大砲製造にも取り組んだ。(キャノン砲、アームストロングのレプリカは至る所に飾られています。)

 

その成果は上野の彰義隊を打ち砕いたアームストロング砲、東北などの戊辰戦争などでも鍋島藩があったから優位に戦えた。世の中が佐幕か勤王かと言う時代佐賀は実用的な物づくりと人づくりに取り組んでいた。

 

大隈重信、江藤新平など急進派の脱藩者も出たが閑叟は寛大に接し佐賀藩では内紛はなかったようです。あまり目立たない地味な殿様ですが一番の名君だったかも。

 

旧古賀銀行、旧古賀邸、旧三省銀行など長崎街道沿いには佐賀市歴史民俗館を形成しています。旧福田邸では佐賀錦の展示や体験ができます。

 

その近くの佐嘉神社、松原神社は鍋島藩ゆかりの神社。工事中の大隈重信記念館、さがレトロ館(食堂)、帰りがけには徴古館、弘道館跡、鍋島段通ギャラリー、駅前の反射炉のモニュメントをみて反射炉を見たことにして佐賀駅から博多へ向かう。昼食はお決まりの佐賀牛。

早朝散歩を兼ねてほとんどの施設の位置を確認したので9時過ぎにはスムースに廻れたが2周したようなものでした。

2泊3日の短い旅の終了で佐賀駅より特急みどり、福岡市営で福岡空港へ雨の羽田には5時着。

<余談>

前の晩は六時過ぎに佐賀駅に着き宿を何とか見つけ、天吹、蔵心、鍋島の佐賀の酒と土佐の船中八策、石川の黒帯、山形の山法師を有明の珍味と刺身でちょっと飲み過ぎた。今回焼酎は全く戴かなかった。ノンベイの感で二泊とも美味しいお店に入れた。

 

65歳を超えるとシニア割引で乗れることを現役社長で相撲仲間で毎月沖縄の別荘に行くチョンマゲさんに教えてもらい初めての利用だったが飛行機は待ち時間が長く列車の方が良い、しかし遠くは飛行機になりますね。

 

佐賀市へきて此れで47都道府県県庁所在地制覇となりました。

平戸城

別名 亀岡城

構造 平山城

天守 元々は天守は無かった。

模擬天守三重三階RC造り

城主 松浦鎮信

遺構 櫓、門、石垣

再建 天守、櫓

平戸大橋を渡ると遠目から天守閣が見える。城へのバス停を降りそこないまた坂を上る羽目に。ただ此処は唐津城みたいにそんなに歩かなくても天守へ行けます。

 

島の北部に三面を海に面し天守からの眺めは素晴らしい。最初の城は嫡男死後火を放ち破却している。自身は対岸の現在の松浦資料館に移り七年後に亡くなる。

 

元禄16年に東シナ海警護の為か特別に築城許可が出る。山鹿素行の子供の築城指導による。オランダ、イギリスとの交易が財源だったが出島に移ると藩財政は厳しくなる。

 

此処はいくつもの櫓が復元されそれが珍しく解放利用されている。櫓は普通そのまま外からの見学が一般的。天守には長崎古版画展がそして鍔にも十字架が。

 
 

向かいの松浦資料館、そして観光写真に出てくる教会と寺の風景。此処まで来たのだからとザビエル記念教会まで向かい反対側から丘を下りバス停へ向かいたびら平戸口へ戻る。

 

残念ながら松浦鉄道の便が旨く接続できず、高速バスで佐世保へ向かい、そこからJR普通で肥前山口へ、特急ソニックで佐賀へと入る。


唐津城

別名 舞鶴城

構造 平山城

天守 あったかなかったか不明

   望楼型5層5階のRC構造の模擬天守

城主 寺沢広高、水野忠邦、小笠原氏など

遺構 石垣、堀

再建 天守、復元櫓、堀、石垣

唐津駅から大分離れた海側にお城はある、麓の学校にも石垣が残っていて此処からの天守の眺めも良い。姫路城以来でのんびり見ていたが此処から城まではかなりの階段を登った。

結構な階段で息上がるも天守からの眺めは今までの疲れを吹っ飛ばす素晴らしい眺めです。青い海、虹ノ松原、海から見てもさぞや素晴らしいだろう。名護屋城の廃材を利用して多くの櫓を作ったようです。

 

平山城ですが海城みたいな三方は海のお城。此処へ来る前の市役所にも肥後堀として復元されている。名護屋城の留守居役と言う面もあり九州大名による普請でできたお城のようです。

 

寺沢広高の息子の時代に島原の乱があり結果唐津は安堵されたが責任を取ったのか江戸で自決嫡男なくお家断絶。その後の有名な殿様は天保の改革の水野忠邦、唐津藩は長崎警護役で老中になれず石高の割に実収の少ない唐津から願い出て浜松へ移り小笠原家の分家が入ったようです。

 

旧唐津銀行、辰野金吾の弟子による重厚な建築物、石炭王の高取邸、此処は杉絵が素晴らしかった。近くに川村美術館があり青木繁没後100年記念展がありましたが残念ながら休館日。今回は佐賀県立美術館も休館日にあたってしまった。普通月曜だろうとツッコみたくなる。

 

当日予約したビジネスへ向かうが近くに寺町がありその中の近松寺へ参拝。小笠原家、近松門左衛門などのお墓があった。庭も素晴らしく何故か長崎26聖人供養の古田織部考案と言われる織部灯籠がある。

 
 
唐津くんちの曳山展示場が唐津神社脇にあり見学、大きくて立派な物ですが置いてあるだけですからこんなもんかと言う感じ。やはり現実に引いたものを見なくてはダメですね。

夜は駅近くの居酒屋で万齢2合、天山1合とマスターおすすめの刺盛りと地の魚をミンチした揚げ物などを戴いた。佐賀は焼酎でなく日本酒が盛んなようだ。隣り合わせの旅人とマスターと盛り上がる。途中長崎のネッ友から電話がありびっくり。

 

七年に及ぶ無益な侵略戦争は秀吉の死によって終了した。朝鮮半島を焦土と化し豊臣政権の衰退を速まらせた。

   

単なる海岸の一寒村が大阪城に次ぐ大規模場城が出来、120以上の大名の陣屋が出来10数万人の都市を形成した。兵どもの跡地に立つと本当に朝鮮半島が、目の前の綺麗な海には明の船があるようにも感じられる。

 

現在は発掘作業の整理で石垣なども修理され周りには遺跡の展示がされています。一度は来てみたかった名護屋城址、やはりスケールが違いよくもこんな大きな縄張りを組んだものだと感慨が大きい。

 

結果は散々なもので朝鮮国内での人的、物的略奪はその後の文物・技術は日本国内の発達には大きな影響を与えたが。

城址の前には県立の名護屋城博物館があり模型などを使って名護屋城築城前、築城、その後と紹介しています。入場無料

名護屋城へは唐津バスセンターから直接の便もあるが少なく、烏賊で有名な呼子へ行き、今回はタクシー往復となった。
今回の城めぐりの中では一番のメインのお城で城内跡地を1時間半位しか散策できなかったが何とも言えない感慨があった。

 

豆バスと言われる地域コミュニティバスで「城下町プラザ」というお土産屋で下車しいよいよお城へ攻め入りです。安養寺、釈迦三尊像の善光寺を左右に見て登りが始まります。

 

車で5分、徒歩で17分と書かれた看板があり17分かと簡単に考えていました。ところが急坂、ショートカットの歩道は結構な角度で気温も上がって途中からハァーハァと息が上がってきます。普通なら車で5分なら徒歩30分近く掛かるはず。やっと石垣が見えてきた。もうすぐ天守だ。

 

何とかお城へ到着、きれいな白い壁にはなぜか蛾が大量にくっいています。此れじゃ牙城でなく蛾城です。この城は昭和8年に天守閣、隅櫓、高塀を再建したもので4層5階。当時としては珍しい木造の模擬天守で日本最古の天守閣だそうです。城は大垣城を模したようです。

 

階段も現存の城のように急階段。天守閣からは街の眺めが絶景、吉田川、長良川を堀に見立てた山城。街が見方により金魚の形に見える。涼しい風、絶景は汗をかいたご褒美。天守閣周りを一周して山道を下りる。

 

街に出て郡上踊りが見られるという博覧館と言う所で少しみてバスで郡上八幡駅へ。車中で観光協会のおばちゃんと話ができ長良川鉄道は1時間に一本の話をすると名古屋、岐阜に高速バスもあるとの事。

 

先に出る方にしようとすると岐阜バスが止まっていて慌ててそれに飛び乗る。行先は岐阜駅前、時間は全然早く着き、値段も安い。当日東京へ帰るので早い方がこの時はありがたい。

 

長良川鉄道はやはり単線、非電化ワンマンで時間はかかる。今回は美濃太田から郡上八幡までで次回また機会があれば全線走破をしたい。ちょっと先に行けばもう冬は雪深い福井に入る。
岐阜駅前の信長像、遠くには岐阜城が山の上に見える。この時も暑い日だったことを思い出す。

 

青春18きっぷですから岐阜から東京まで2370円で帰れますが当然時間が掛かる、一昨日、昨夜の雑魚寝であまり寝ていないので少しでも早い方が早く寝られるのでありがたい。7時には帰宅。

 

名古屋ボストン美術館、太多線、名古屋千秋楽、長良川鉄道、郡上八幡城と初めてばかりの旅でした。上は今回のお土産品。朴葉味噌は牛肉を入れて食べると美味しい。今回は鮎は食べずまたウナギ、帰ってきてもウナギで今月はかなりウナギを戴きました。

 

お城は現存天守12城は大分前に制覇して今は昭和に再現されたお城ばかりになっています。今回は木造造りでしたがコンクリートでも天守閣からの眺めは格別です。来月は白すぎると話題の白鷺城を予定。

 

 

 

 


土浦城見学から友部駅で乗り換え笠間駅へ。水戸線は接続が悪く良かったか悪かったか
30分位の待ち時間があり駅前の一軒の食堂だけ開いていて遅い昼食を戴く。


笠間駅は有名な笠間稲荷、日動美術館、笠間焼などで笠間城址へ行く人は全くいない。城には何もない。石垣程度である。しかし、この石垣が関東では珍しいのです。
 

駅から真っ直ぐな道を歩き、笠間稲荷神社と別れひたすら笠間城址公園(差白山)へ向かう。帰りには日動美術館でも見学しようと思いながらひたすら汗びっしょりなりながら歩く。                                                                                               


笠間城は承久元年(
1219)笠間氏が築城した山城で笠間盆地の中央に聳え全山うっそうとした樹木に覆われています。遺構はほとんどなく空堀、土塁で関東では珍しい石垣が多く残っています。


山城と言っても
182mですから軽く考えていました。駐車場から出てきた地元の人?と途中会い、せっかく遠くから来たのだから、なだらかな道でなく、昔の石段などが残っている所を案内してもらいました。その方は山の中で食事をするのが好きだそうです。


そこから別れ頂上を目指し、佐志能神社まで急な石段を登り何とか到着。もう途中の石段、石垣は東日本大震災で壊れ、崩れています。立ち入り禁止になっていましたが石段を登りました。佐志能神社は完全に崩れ、周りをブルーシートで覆われています。


塀として囲っていた多分天守の瓦を使った塀も崩れています。その神社裏には大きな石がたくさん積まれています。そこも何とか乗り越えここから先へ降りようとチャレンジ。



下に降りたら昔、舗装された道へ出てどっちへ行って良いのか解らないですが取り敢えず右に行く。上からは大きな石が木で一応止まっていますが一寸した揺れで落ちてくる心配があります。
 



まだ夕方前ですが空もだんだん曇り、周りが暗くなってきました。道には落ちた木かと思ったら蛇だったり、訳のわからない電気もないトンネルがあったり顔から蜘蛛の巣に絡んだりと中々下におりられません。

登ったのは20分位なのにもう1時間近くは歩いています。空も暗くなり集中豪雨も心配、中々降りられず、人もいない。ただ携帯が使用可能なのがちょっと安心 



やっとこ栗林を超え下の車が走る道に出ましたが、手を挙げても車は止まらず、民家がないかまずとことこ歩く。あっても声をかけても出てくれない。ここでも
30分以上歩きやっと民家から人が出てきたのでタクシーを呼んでもらった。 

乗れば15分くらいで笠間の駅に到着。駅まで歩く元気もなくタクシーに待ってもらい途中の笠間稲荷神社参道でクルミ入りおいなりさんをお土産に。お稲荷さんは遠くから参拝したことに。 

駅で汗ビッショリのシャツを替え、頭の蜘蛛の巣などを払い、顔を洗って帰宅の途に。予定より2時間以上遅れました。 

どうもこの所自分で勝手に決めて思い込みで歩き無駄な散策になる。今回は雨が降らなかったので良かったが危なく遭難の危機でした。やはりパワースポット笠間城恐るべし。 

この時のパンパンの足は未だ弁慶の泣き所、太ももなど押せば痛い。

 

8f7a5d8a.jpeg当初は西尾城、小牧山城を巡ってその日に帰ろうかとも思っていました。青春18きっぷですから当然このコースでは一番電車で帰りは最終電車で自宅には12時過ぎに着きます。ただちょっと間違えば帰れなくなります。
 
そこで歳ですし今は急なゲリラ豪雨が有ったり鉄道も予定通り行かない事もあるので安全を期し名古屋で一泊しました。帰りがけにJR西焼津からバスで行く、田中城へと。本来は藤枝城と言った方が解りやすい場所にあります。バスの便は極端に無く結局タクシーで。
 
ea783ea2.jpeg田中城の特徴は日本では余りない輪郭式の曲輪です。4重の堀を巡らせた同心円形をしたお城です。敷地内の中心に本丸御殿があったようです。もうひとつ、徳川家康が此処でか駿府でか鯛のてんぷらを食べて亡くなった事です。
 
76f54dd2.jpeg現在は本丸にあった本丸櫓が移築されています。敷地内には村の米蔵、中間部屋と厩、元田中家の家老宅の茶室などがあります。元々は家康が鷹狩りやお茶会などに利用していた物だそうです。
 
fbf15336.jpeg0f085fc0.jpeg櫓の内部は狭いですが畳敷きで2階は風通しも良く涼しい。2階には明治維新後の高橋泥舟が入りましたので「光風霽月楼」という扁額、田中城の全体模型などが展示しています。昔の狭い造りですから階段も急になっています。

郭内の面積は円形ですから大きくなるが攻めてくる敵に横からの攻撃が困難でこういう縄張りは珍しい。受付の人に聞いたら此処は湿地帯で湧き水も多く難攻不落の城だったようで家康も何度も攻めたが落ちず、結局和睦で手に入れたそうです。埼玉の忍城みたいな感じだったのだろうか。

初めての円形の縄張りの城でした。堀だけでも残っていれば全国の城マニアが押し寄せるだろうに。近代生活には邪魔な堀で何処でも埋め立てられ道路になったりしている。
fd191e49.jpeg0533b23d.jpeg 
行きはタクシーで行きましたが帰りはタクシーもなくバスは1時間に一本としょうがなく30分位掛けて西焼津駅まで戻りました。途中焼津市の有形文化財と云う大井神社の御社を特別に中に入れて戴き拝観させて戴きました。
 
469d10bf.jpeg安永9年建立の神社で、屋根には柿葺、流造りで木材は欅で沢山の彫刻で飾られています。汗びっしょりで何人かに聞きながらやっとこ駅へ。残念がら途中に郵便局は気が付きませんでした。
 
名古屋から豊橋で乗り換え時に何時もの新幹線口の壺屋の売店でお稲荷さんを購入していますが次の目的地吉原で昼食にしようとJR焼津から興津行きに乗り吉原駅へ向かう。
 
JR東海のダイヤは自分勝手の物が多い、行きで言えば熱海から早朝は島田行きになる。そのまま乗ると島田駅でずっと待ち、あとの電車は満員で座れない事が多い。島田行きはその後、熱海行きになる。行きでは島田行きも静岡で降りて座っていくか、熱海で1本外して次の静岡、浜松行きに乗っても同じ時間になる。
 
904d13e4.jpeg興津行きも此処で長い事待たされ、次の沼津行きは満員。興津で止まった電車はすぐ浜松行きになる。

今回は興津止まりを知らなかったのと時刻表を良く見ていなかった事が原因でもありますが。結局、吉原まで立っていく。
 
立っているので運転席を見ていた。流石JR東海の運転手、確認作業も此方まで声が聞こえる。時間通りの運行、停車位置の正確さ、凄い基本通りの動作。決して若い運転手でなくベテランの運転手。これがローカル鉄道だとこうはいかない事が多い。

 
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