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aa8913ed.jpg大和郡山城
通称  雁陣之城
構造  平山城
天守  なし
築城主 筒井順慶
主城主 筒井、豊臣、水野、柳沢氏など23代
遺構  石垣、堀
再建  大手向櫓、東櫓、大手門
交通  近鉄郡山駅徒歩5分 無料
 
織田信長の後ろ盾で筒井順慶が大和を統一した。
この郡山には筒井城と郡山城があったが天正8年の織田信長の一国一城令により筒井城は破却、翌年に明智光秀の普請目付で大規模な城郭の建設が始まる。天正12年(1584)に筒井順慶死去により養子の定次は秀吉の命により伊賀上野城に転封。
 
翌年豊臣秀長が大和の国、和泉国、紀伊国三国100万石で入城。大改修が始まる。しかし天正19年秀長死去、その養子秀保も急死して断絶、100万石のお城は終焉する。
 
関ヶ原後郡山城の多くの建物は徳川伏見城へ移築され、城主は10万石大名が入れ替わっていく。江戸後半の甲府から来た柳沢吉保、吉里親子により養蚕の持ち込みによる奨励、趣味の金魚も運び金魚養殖が盛んになる。維新後は職を失った武士の仕事にもなり、現在でも日本最大の金魚の産地になっています。

24629386.jpgced9279a.jpg天守台の裏手には逆さ地蔵といわれる、石垣の間に逆さになった地蔵が埋もれていたり由来の変わった他の石もあり、この地蔵を弔うため石垣にはお地蔵様が奉納されています。
 
秀長の時代、奈良には石垣になる良質の石が少なく、奈良一体から強制提供させ、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども石垣の石にしたようです。
 
100万石の秀長入城には郡山を奈良一の城下町にして興福寺、東大寺を睨むこの場所が適地とされていたかのようです。天守台から追手向櫓、東櫓、法印曲輪跡などが見えます。
 
bea65419.jpgd824d463.jpgこの天守台は、5層の天守があったには、かなり小さく感じました。そして100万石のお城があったとはとても思えない。勿論秀長後は10万石程度でしたし昔の縄張りではないでしょうが。

誰もいない天守台はロマンを感じるより寂しさの方が強かった。それはこの下にお地蔵様が埋もれたりしているのを見た後だからだろうか。とても竹田の岡城のような感じにはなれなかった。


 
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