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美術館・鉄道・お城・お相撲・お友達の話など趣味のブログです。
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恒例になってきたしながわ宿場まつりいつの間にか24回目です。9月の27日、28日の二日間に渡って京急の北品川駅から青物横丁までの旧東海道、4つの商店街が共催で行われています。

  (上の写真はスタート地点へ人力車で向かうところ、異人さんの禿もいます。)

昨日は夕方4時から北品川八ツ山から目黒川の品川橋までの花魁道中がメインの催しです。昔通りの道幅約10mの狭い通りに多くの人が花魁道中を見学しようと詰めかけています。

 

その他に聖蹟公園内では日本各地の恵み、食と物産、ステージではバンドや踊りなどのライブ。沿道の各商店街前には各お店の物販やフリーマーケットなどが行われています。

 

28日のメインは警察、消防などの交通安全・振り込み詐欺防止、火災予防のパレードから江戸時代の扮装をした江戸風俗行列、品川橋付近では鉄砲隊の演舞、品川寺の火渡り荒行、ミニSLなど多彩に行われます。


(上の写真はだいぶ前のものです。) 

旧品川宿にはたくさんの旧跡がありますが商店街の人は旧東海道の風情を大事にしています。今回も各TV局、新聞社の取材中継も多く2日間で20万人も来る大イベントになっています。

 

 

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28日、29日の両日、京急の駅で言うと北品川駅から青物横丁駅間の旧東海道を舞台に品川宿場まつりが開催されました。

旧東海道ですから道幅は6間の約10.8mという狭い道幅の両サイドには模擬店や屋台、フリーマなどがぎっしり出店。前日28日は夜にはおいらん道中、29日には交通安全パレードで品川女子の鼓笛隊、ブラスバンド、バトントワリングと続き江戸風俗のパレードが。

水戸黄門、芸者、一心太助、奉行、侍、町娘、瓦版屋などが仮装行列が人気です。その間に聖蹟公園には日本各地の物産、太鼓の共演、荏原神社脇の橋からは森重流砲術鉄砲隊演舞など。

パレードは青物横丁の品川寺(ほんせんじ)まででこのお寺では火渡りの荒行が行われます。今年は見学しませんでしたが境内の真ん中に松などの木を燃やし、そこを裸足で渡ります。修行僧が渡った後は信者の方も無病息災を祈願して渡ります。

ここの鐘楼は第4代将軍家綱寄進の物で1867年パリ万博,1873年ウィーン万博で展示後行方不明になりその後、ジュネーブの美術館に所蔵されていた。返還交渉後戻ったため「洋行帰りの鐘」とも言われている。

隣は海雲寺で荒神様をお祀りしています。台所の神様で近いところでは11月27,28日に御札を授かるため多くの参詣客で賑わいます。

境内にはえんの行者、橘右近筆塚、本堂には多くの荒神様の文字額などもあります。品川宿には大変多くのお寺があります。皆由緒ある寺社で品川宿巡りのコースに入っています。

お寺を書いたら一年中書かなくてはなりませんのでこの辺で。

 

 

                                               

 

品川宿には、昔からのお店がいくつかあります。しかし、今流行りの老舗と言われるお店は少ないようです。

和菓子屋、せんべい、畳屋、履物屋などでしょうか。(丸屋、松岡畳屋、加藤畳店(創業
250年サクセス)あきおか(創業100年)桝翁軒(創業160年)品川餅の木村家(明治中頃)

 

昔の雰囲気としては舟たまり、台場小学校内の灯台、今は大名たちの墓、銅ぶきの家、品川神社の富士講、樹齢600年を超えるいちょうの木、江戸六地蔵など。

 

私はあまり此処では食べないのですが「そば」はどちらも美味しいと思っています。しながわ翁、栄亀庵、砂場、吉田家、更科布恒など。

 

うなぎは大森海岸梅むら、大森駅近くには野田岩などがあります。てんぷらも大森海岸天仲、お座敷洋食の入船など。やはり大森海岸には花柳界が盛んだった名残でしょうか美味しいお店が残っています。品川宿も昔は色街だったのですが食事のお店は私は余り知りません。

 

1、   台場建設と江川太郎左衛門

2、   寺社と銀杏の木

3、   羽田道、池上道などの各道

4、   横町の中の生活、井戸

5、   歴史に登場した人々

まだ色々ありますが今回はこの辺で一応終了します。

今回は忘れないうちにメモしとけば良いと思い始めました。品川宿は十数年前から歩き始めました。素人で勉強不足で歴史的な背景など答えられずただ、お寺の案内をしていました。有名人のお墓めぐりでした。それも今では楽しい思い出です。

今回はそのお墓めぐりのパターンでないもので纏めたメモです。著作権の問題で載せられませんが浮世絵もたくさん描かれています。(了)

 

品川宿には入江長八の「こて絵」がある寺社が2つあります。お寺さんは善福寺、寺社が寄木神社です。こて絵は、日本独特なもので東洋のフラスコがとも言われています。

入江長八は伊豆の松崎の生まれで伊豆の長八とも呼ばれています。江戸から明治時代にかけて活躍したこて絵の名人です。長八は20歳の時江戸へ出て御用絵師などに狩野派、彫刻などを学ん
だ。その絵画・彫刻を漆喰細工に応用し、こてで壁や天井に漆喰細工をして絵の具で彩色をしたものです。

松崎では長八記念館(浄感寺)、伊豆の長八美術館などがあります。長八のこて絵は東京近郊では泉岳寺、成田山新勝寺など。一番多いのは大分出身の長八の弟子、その弟子と多くの作品が大分県安心院町の安心院にあります。

寄木神社  東品川1-35-8
目黒川沿いのチョット横丁に入った小さな神社です。本殿奥の扉にこて絵があります。外からは残念ながら見ることが出来ません。私も1度月刊おとなりさんの品川塾のお手伝いで見ただけです。内容は天孫降臨の図でした。

善福寺  時宗 北品川1-28-9
ここは本堂正面の壁面ですので見ることは出来ます。絵は龍です。しかし残念ながらかなり劣化しています。剥げ落ちているところもあります。お寺さん自体もかなり荒れています。

こて絵は日本独特の左官職人の名人技です。漆喰自体ももうそんなに使わなくなってきましたのでこて絵自体もなさる人が少なくなっているようです。左官職人さんをバスで松崎にお連れする事を何回かしましたが職人さんが感心しているんですからそれは難しく手がこみ時間も掛かるものだそうで今は建物を作られる人からの注文も無いようです。

松崎長八記念館
http://www.wbs.ne.jp/bt/matsuzaki/yado/chohati.htm
長八美術館
http://www.izu-matsuzaki.com/cyouhachi/cyouhachi.html

品川宿界隈には大名の墓所があります。今回はお墓をあまり取り上げるのをやめていましたが大名の墓所も時代により変わっていくのを取り上げました。

まず奥平家、細川家、山内容堂とこの3つがあります。大名のお墓ですからやはり一般の人、明治の有名人の墓とも違います。何処も墓域に入ると中の空気が違います。個人的には余り長く一人で居たくない雰囲気があります。

奥平家墓域 清光院 臨済宗 南品川
4235

清光院に祀られている。初代奥平定昌は徳川家康の長女亀姫を夫人として美濃10万石、2代家昌宇都宮10万石、4代昌能山形から豊前中津藩主、広さ594㎡、瓦を重ねた土塀に囲まれ家昌夫妻各代88基の墓が並んでいる。特に家昌夫妻、姉の雲松院の墓は3Mを超える五輪塔、中世の様式を留めている。慶応義塾の福沢諭吉の家も中津藩のようです。

 

細川家墓域 北品川31117 細川家敷地

目黒川の前にあり山手通りの間にあります。通りからも五輪の塔がみえます。

この墓域は東海寺の塔頭のひとつ妙解院だったようですがお寺が廃寺となったが墓域だけ残り細川家所有地に入り口に管理をされている方の家があります。留守でも入ることが出来ます。

熊本藩主細川光尚が父の忠利の供養のためこのお寺を建てた。広さ2864㎡、上の段(熊本新田支藩・高瀬藩)と下の段(熊本藩)に分かれている。6代以降の9代、10代を除いて16代まで護立までの墓。16代は元総理のおじいさん。

五輪塔は空、風、火、水、地を表す。五輪塔が沢山ある。関東大震災などで欠けている部分が多い。肥後熊本藩54万石の大名。藩祖は細川忠興(3代)信長、秀吉、家康と仕え豊前中津藩39万石、のち熊本藩54万石。忠興の夫人は明智光秀の娘のガラシャ。

  

山内豊信(容堂)の墓 東大井4-8 大井公園内

豊信は分家山内豊著の長男で豊惇の養子になり15代藩主となる。寛永元年(1848)土佐藩主になった豊信はペリー来航など対外的危機、先進的な吉田東洋に藩政を任せ、越前福井藩主松平春嶽、薩摩藩主島津斉彬と一橋慶喜の擁立に尽力。
 

安政5年安政の大獄の後隠居、6年謹慎を命ぜざれ鮫洲の別邸にて鯨海酔侯?として。

文久24月謹慎を解かれ公武合体、尊王攘夷派弾圧に乗り出す。しかし、その後大政奉還論をとり慶喜に建白、徳川家権力保全に努めるも王政復古により失意の余生をおくる。

 

この墓所は土佐山と呼ばれた下屋敷があったところです。墓は土饅頭型、3つあり中央が豊信、右が豊範(16代)、左が豊煕。立会川小学校の隣にあり管理も学校がしているようです。

ちょっとした小高い山?ぽく階段はお城へ登るような感覚で袴対応の階段らしく一段づつの高さがある。

 

品川は平安朝の時代よりその地名があり、鎌倉、室町時代には江戸湾の重要な港として栄えてきました。大田道灌も品川にいた時代がありました。徳川氏が江戸に入り慶長6年(370年前)に東海道五十三次を定め、品川は第一の宿場になりました。沿道には由緒ある社寺が多く古くから七福神が祀られ「七難即滅七福即生」の故事により参詣も多く、昭和7年に品川が大東京に編入された記念として東海七福神初詣を定め、今に至っております。(東海七福会パンフより)(以下はしながわ観光協会ちらし参照)

品川神社(大黒天)北品川3-7-15
インドの神様、ここは、源頼朝が海上安全を祈願したのが始まりと言われています。家康も関が原の戦いの戦勝祈願をし、家光の代から幕府の庇護を受けた。例大祭には家康奉納の「天下一嘗の面」を家光寄進の神輿の屋根につけ急な階段を渡御する。境内裏には板垣退助夫妻の墓、階段途中には富士塚、境内には石造りの鳥居、灯篭など見るものが沢山あります。毎月第二日曜には手作り市が開かれている。

養願寺(布袋)北品川2-3-12
中国の神様、つねに大きな袋を背負って大きな腹を出して全国を修行して回った和尚さん。虚空地蔵尊は丑、寅生まれの守り神とされています。毎月7の付く日が縁日としています。分からないのが3月13日、11月13日に数え13歳の子供がお参りすると福、徳、知恵が授かるという13参りがあります。虚空地蔵尊を御祭しているのは東京では此処だけだそうです。

一心寺(寿老人)北品川2-4-18
中国の長寿の神様、旧東海道で唯一海側にある小さなお寺。成田山の分身である不動明王がご本尊、延命と商売繁盛を授けてくれる。毎月28日が縁日。

荏原神社(恵比須)北品川2-30-28
イザナギ、イザナミの2神の第3の子ヒルコまたは大国主命の子の事代主命であるといわれている。海上、漁業、商売の守り神。品川神社と区別する為南の天王様と言われる。海上渡御でかっぱ祭りと言われ6月初旬の土日に行われる。

品川寺(毘沙門天)南品川3-5-17
インドの神様、北方を守る武神、財宝お宝を守る神様。入り口には江戸6地蔵(1番)が旅人の安全を見守る。ジュネーブから戻った洋行帰りの鐘、樹齢600年のいちょうの木、秋には火渡りの荒行が境内で行われる。

天祖諏訪神社(福禄寿)南大井1-4-1
中国の神様、福、禄、寿の3つの福徳を授けてくれる神様。

磐井神社(弁財天)大田区大森北2-20-8
インドの神様、七福神唯一の女神、学芸、水の神様。京浜第一国道脇にいわいの井戸がある。ここだけが大田区になります。

ここまで2時間くらいでまわれます。正月しか色紙販売はないですがお参りはいつでも周れます。

ぴや~バロン

品川宿界隈には、寺社がたくさんありますがその中で筆塚があります。今、私が分かっているのは2つですがこれだけ多く寺社がありますのでもっとあると思います。

 

海雲寺 曹洞宗 品川区南品川3-5-21 

千躰荒神で有名なお寺さんです。荒神様は台所で一番大切な火、水を守る神様です。台所に祀ると一切の災難を除いて衣食住に不自由しないとされています。

 

毎月1日、15日、28日が御縁日です。大祭は3月27日、28日と11月の27日、28日です。物凄く多くの方が見えます。お参りの後は真っすぐ帰らないといけないとされています。

 

彫刻が施された立派な鐘楼、平蔵地蔵、烏琵沙摩明王(大明王),千躰荒神堂には素晴らしい奉納扁額などがあります。

 

筆塚ですが本堂に向かって左側、お札授受の建物裏にひっそりとあります。橘流寄席文字の筆塚です。家元橘右近の字で立派な、それでもちょっと寂しくあります。その塚を囲むようにブロックに削り込んだ講の方で席亭、噺家、旅館、飲食店が書き込まれています。講元は呼び方は違いますが鈴本亭、読めるのもありますが大体は、読みづらくなっています。

字も右から左で寄席文字ぽく読みづらい。順不同で読めそうなもの。人形町通末広亭、上野広小路講元鈴本亭、上野広小路 旅館山城屋、桂三木助・三好夢輔、湯島 志満多 天三、下谷 鶴の家 池の端、横浜市若竹町 美津木 歌?、二代目三遊亭園遊・三遊亭遊三、桂文楽・三遊亭山藤、春風亭柳昇・○○亭柳橋、浪速亭重松、立花家園喬、下谷 いさ梅 池の端、京橋 新肴町 大松、新橋 中出紋平、二代目柳家枝太郎・二代目柳亭朝枝、川崎弁天町 松蕉井、京橋具足町 大槻才次郎など。

 

その他に境内の真ん中に橘右近83歳と書かれた力石があります。持ちあげなくても触って元気を貰うということのようです。昔は若い衆が持ち上げたんでしょう。

 

海徳寺 日蓮宗 品川区南品川1-2-10  

このお寺さんは王選手が大好きだった少年の墓。入院中や没後も王選手が訪れお参りをしたそうでいつの間にかホームラン地蔵と呼ばれています。屋根を支える珍しい力士像、軍艦千歳殉難者の碑、昔の版木20枚などがあります。

 

筆塚は日本書鏡院のものです。本部が荏原神社近くにあります。長谷川耕南翁から現在は耕生先生のようです。実は私は耕生先生がお書きになった正月の色紙を戴いたことがあります。

 

版木もそうですが昔はお寺さんで色々お札や正月の七福神の絵など戴いたようで、今でも掛け軸などを書く和尚さんが多いようです。今はあまり使わなくなりましたが昔は筆が1番の筆記用具でした。探せばもっとあると思います。海が近いので包丁塚、針塚など色々あるようです。

 

日本書鏡院HP
http://www.shokyoin.com/1.html

泊舩寺 臨済宗大徳寺派  品川区東大井4-5-2

品川宿界隈での俳句といえば泊舩寺が俳句寺として有名です。泊舩寺は芭蕉ゆかりの寺として境内には多くの句碑があります。実はどれがどれだか読めませんが芭蕉の句碑は2基あります。

旅人と 我が名呼ばれん 初時雨

いかめしき 音やあられの 檜笠

 

木造松尾芭蕉坐像は高さ383㎝寄木造り、芭蕉旅姿版下など、その他に芭蕉のお弟子の木造服部嵐雪坐像、宝井基角坐像などがあります。

 

品川区指定有形文化財として木造白牛禅師坐像があります。高さ32.6㎝、寄木造り黒色仕上げだそうです。泊舩寺内の芭蕉堂に山奴(さんど)という俳人が住み、弟子景山とともにこの地域の人に俳諧の道を広め、門人数百名に及んだという。山奴は後に出家して白牛禅師となった。この寺が俳句寺として有名になったのも彼の力に負うところが大きいと言われています。

 

芭蕉10門人

宝井基角、越智越人、各務支考、志太野坡、杉山杉風、立花北枝、内籐丈草、服部嵐雪、向井去来、森川許六

 

海晏寺  曹洞宗  品川区南品川5-16-22

岩倉具視などの有名人のお墓が多くあることで有名です。江戸時代は紅葉の名所としても有名で江戸名所図絵にも描かれています。

 

ここには俳人白井鳥酔の墓、春秋庵白雄のお墓があります。

松茸の 匂ふ山あり 鼻の先 鳥酔

菊百合を 両尊にして たち葵 鳥酔

たちいでて 芙蓉のしぼむ 日に逢へり 白雄

 

来福寺 真言宗 品川区東大井3-13-1

前回も書いた雪中庵蓼太の句碑、雪中庵派は芭蕉の弟子服部嵐雪が起こした。江戸俳諧で大きな勢力となった。蓼太は嵐雪のお墓などを建立。

 

世の中は 三日見ぬ間の 桜かな 蓼太

師匠嵐雪が蒲田梅屋敷を詠んだ句として

白雲の  滝をつつむや 梅の花

 

 

鉄道の初代鉄道頭、鉄道の父と言われる井上勝のお墓は、東海寺の大山墓地に祭られています。東海寺は沢庵和尚を開祖として家光の庇護のもと大きな敷地だったようです。途中に京急の鉄道、第一京浜国道などにより東海寺本堂とこの大山墓地は離れています。大山墓地は大崎に近いところです。

この墓地には井上以外にも有名なお墓があります。当然、沢庵和尚の墓、夢という字の石碑、国学四大人の一人賀茂真淵、ガラス製造の民間経営の西村勝三などが祭られています。この地は三角地で山手線、東海道線、新幹線などが脇を走っています。鉄道の父、井上勝の墓としては最高の地です。しかし他の人にとってはこんなうるさい処になるとは思ってもいなかったでしょう。

鉄道の地としては旧新橋停車場として平成15年に昔の建物の外観を忠実に復元したものが汐留にあります。そして建物の裏には鉄道の起点であるゼロキロポストが当時と同じ処に再現されています。当時のレールも施設されています。



当時の技術はイギリスからで植民地政策をとるイギリスは標準軌でない短いレール幅の技術を持ってきた。今でも標準軌を使っているのは新幹線など一部のレールになっています。京浜急行は珍しい標準軌を採用していますが是に関しては後日また。

現在、旧新橋停車場では警視庁カメラマン石川光陽が撮った写真展が開催されています。期間は3月21日まで入場無料、戦前を中心とした東京の写真を展示しています。大変興味が湧く写真も多くもう少しゆっくりして見たかった思いがあります。

鉄ちゃんとしては、大山墓地の井上勝の墓、旧新橋停車場歴史展示室、大宮のテッパクになるんでしょうか。井上勝には変わった物として小岩井農場なんていうものもあります。明治24年、火山灰の原野開墾による小岩井ですが小野義真、岩崎弥之助、井上勝の頭文字をとったものだそうです。

 

梶原景時と言えば治承4年(1180)8月石橋山の合戦で敗走していた源頼朝が伏木の洞穴に隠れていたのを見てみぬふりで助けた事で有名です。頼朝は真鶴から千葉へやっとこ逃れた。

本拠地を鎌倉にして平家に不満を持つ東国武士を集め挙兵する。源氏の勢いが増し平家は劣勢になる。富士川の戦いの後、景時は平家の大庭景親から源頼朝へ仕える。

景時は御家人統括の侍所の次官、鶴岡八幡宮の造営奉行、雑事奉行へと頼朝の引き上げにより上位に付いていく。そんな中義経との仲が旨く行かなくなる。屋島の戦いの会議で義経の戦い方は大将が先頭を切っていく戦いをする当時としては異色な物だった。当時は、双方から代表者が出て名乗り合いそれから戦いが始まる。

屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと勝ったが勝利を自分ひとりの物とし戦い方も頼朝公の命令に反するなどと報告により義経は鎌倉へ入れず。頼朝が征夷大将軍になると景時の力も大きくなった。景時の報告により窮地にたたされたり罰として殺されたりと景時の横暴な振る舞いが目立ってきた。

結城朝光、畠山重忠との確執、源範頼との反目。しかし、頼朝の死後は景時の後ろ盾がなくなり以前から景時の態度を嫌っていた御家人から反撃を受ける。2代源頼家から追放に合い、清水の高源寺近くで一族が死滅。このお寺にお墓がある。

そんな典型的なサラリーマン的な生活であったが大田区馬込の万福寺にも五輪の塔がお墓だと言われている。また愛馬麿墨(するすみ)の像もある。

品川宿の北条時頼が開基といわれる海晏寺には時頼、時宗、景時のものと伝わる石塔がある。来福寺には梶原稲荷神社また、大田区六郷神社の太鼓橋は景時寄進のものとされている。手水石は頼朝奉献といわれている。これは、源頼義、義家の父子が前九年の戦い、そして頼朝も奥州出陣の戦勝祈願をしたお礼に社殿造営したようです。

景時はどちらかというと余り良くは言われていない。目端が利き頼朝親分の力で生きていた。戦力のある義経を陥れたといったことが前面に出ています。まぁサラリーマンはどこでも同じだと思うのですが。

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