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美術館・鉄道・お城・お相撲・お友達の話など趣味のブログです。
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模擬天守(長浜城歴史博物館)

長浜城は羽柴秀吉が初めて城持ちになって築城したものです。しかし、現在の建物は長浜城歴史博物館として昭和58年に出来たものです。

歴史博物館ですから色々展示企画がされています。2階では大通寺の雛人形展(井伊直弼の七女で大通寺へ嫁いだ砂千代の調度品などの展示)3階は浅井三代と三姉妹、常設展として国友鉄砲鍛冶と一貫斉を開催中。

通称  今浜城
構造  平城
天守  不明、現在模擬天守
城主  羽柴、柴田、山内、内藤

長浜は黒壁で城下町の雰囲気が出ている、昔はNHk大河ドラマの秀吉でクローズアップされ一時は彦根を上回る人気の地域です。そしてまたNHKドラマの「江」で至る所で関連イベントが催され城下町とイベントによって安土桃山文化の香りが出ている。

小谷、江のふるさと館、浅井・江のドラマ館、長浜黒壁歴史ドラマ50作館などがあります。大通寺を中心とした門前町風景でもあります。城は廻縁があり、琵琶湖を一望でき高さはないがかなり高く感じ風も強く一人では怖さを感じた。雪をかぶった伊吹山はやっぱり北陸に近いということなんでしょうか。

太閤井戸は残念ながら見ることが出来なかった。お姫様の嫁入り道具はやっぱり立派なものです。

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3月8日から2泊3日でお城めぐりと郵便局スタンプと一寸した観光を目的に東海道線を中心に出かけました。

お城は、今回琵琶湖周辺の彦根城、長浜城、幻のお城安土城址と犬山城周辺を目的として時間があれば明治村もと考えていました。城廻も1日2つが丁度良いと思っていました。

1日目 東京から東海道線米原で乗り換え琵琶湖線長浜城、米原に戻り、東海道線ですぐの彦根城。城下町散策、本日は彦根泊り

2日目 彦根からすぐの安土へここは信長の理想とした城があったところ、真っ直ぐな石段とあっただろう各前田、秀吉なども住まい、天守跡など、安土から東海道を上り大垣で大垣城、岐阜で下車するも岐阜城までのロープウェーが整備中、登山で行く気無しで断念、豊橋から市電のちんちん電車で吉田城、戻ってJR岡崎から愛知環状鉄道中岡崎で岡崎城、今度は東海道を下って名古屋乗換えで名鉄犬山へここで泊まり。ライトアップしたお城は幻想的でした。

3日目 犬山城・城下町散策、犬山駅に戻り岐阜バスCで明治村を見学、犬山へ戻り名古屋へ、此処から地下鉄で市役所前から名古屋城の本丸御殿工事の見学、名古屋へ戻り東海道にて帰宅。途中浜松城や静岡の駿府城など今度行こうかなどとへばりながら思って車中から見ていました。

結果的にハードな行程になりました。これも岐阜城が行けなかった反動のようです。当初の彦根、犬山、安土はクリアしていますので大半目的を達成しました。

昨年の四国の城廻は期間も長かったのでハードで自分の体力がこんなに落ちている事を自覚させられました。今回は事前に週に2回程度脚力、耐久力を中心にやっていましたが前回より体力の落ち込みを感じさせられました。ですから、雪ですから止めたんですが福井の丸岡城も近いからやってしまい、岡山の備中松山城を残して暖かい時完全な登山武装で挑戦しようかと思ってしまいました。

現実は福井へは行きませんでした。最初の彦根城までのアプローチ、城内、天守までと此処ではコンクリートではなく昔ながらの石垣、石段、城内の階段も急で重い荷物とでしょっぱなからバテ気味でした。

今回は四国の相棒はいませんので一人旅です。行程も結構ラフにしてあります。事前確認もいい加減なところがあり道を間違えたり、コース日程を間違えたり岐阜城などのロープウェーのリニューアル休業を確認し無かったりとかなりいい加減でした。一人旅は気軽で良いのですが話し相手がいないので昼、夜の反省会はちょっと寂しいです。

結果として 1日目 お城 2 郵便局印 1 歩数 17000歩
2日目 お城 4 郵便局印 3 歩数 23000歩
3日目 お城 2 郵便局印 2 歩数 21000歩

今回で現存木造天守閣をもつ12城は福井の丸岡城と岡山の備中松山城となりました。そして国内では佐賀へ行けば全国制覇になります。寿命とともに残りが少なくなってきました。(苦笑)

別荘バロン
やっと帰って来たにゃ。

模擬御三階櫓熊谷から秩父鉄道に乗り換え行田市駅にて下車。駅から15分位歩き忍城へ。秩父鉄道の熊谷~羽生間は乗ったこともなく今回ちょっと楽しみでした。良かったのは、改札で売れ残り記念切符、グッズなどを購入。残念なのは郵便通帳を忘れた事。

 

まず行田市は忍城の城下町ですが足袋、古代ハス、はにわ、古墳などのようです。最近では和田竜の「のぼうの城」にて今年の秋には映画もあるようです。

忍城 

通称  浮きの城

構造  平城

天守  御三階櫓

城主  成田氏、松平氏(奥平)
 

天下統一の秀吉は北条氏の小田原城を落城せんと攻める。北条氏は関東各地の城主に小田原城籠城に参加するように通達。忍城も北条家の支城の一つで城主成田氏長は弟泰親と小田原城へ参戦。しかし裏では秀吉側に降伏を通達していた。

 

城代は城主氏長の伯父泰季だったが亡くなり、その子長親が務める事になった。しかし、長親は領民から「のぼう様」と云われるでくのぼうでした。忍城には石田光成が攻撃。その軍使長束正家の振る舞いに降伏するはずだったのが長親は宣戦布告をしてしまう。、、、、女性の力は強い。

 

忍城は、沼地に作ったお城で光成の攻撃にも落ちなかった。小田原開城により忍城も開城。光成の水攻めにも耐えた。入場券売り場では「落ちないお守り」を販売していた。

 

10万石のお城です。しかし、明治に取り壊され昭和63年に再建、中は郷土博物館の展示室になっています。もう昔の沼地の上に浮くお城のイメージはありません。

ホーム案内板に広告が(秩父鉄道熊谷駅ホーム)
パパリンの鉄道の旅

掛川城は掛川駅から徒歩で10分くらいです。
通称  懸川城、雲霧城、松尾城
構造  平山城
天守  複合式望楼型3重4階
     1996年木造復元
築城主 朝比奈泰煕
城主   朝比奈、山内、太田氏

掛川城は近年木造による復元したきれいなお城です。そして城主の山内一豊はNHKの功名が辻で有名になっています。妻千代のへそくりによる名馬購入により信長に褒められ、秀吉の家来として家康が江戸へ移るのに伴い城主として入城。

関が原では家康にこの城を譲り戦後特別な武勲も無いのですが24万石として高知城へ栄転。この城は浜松城とともに出世城と言われる。このお城の復元には設計図はなかったが高知城をまねをして復元した。山内一豊は高知でこの掛川城を懐かしみ同じようなお城とした関係です。

城脇には二の丸御殿が残っています。大名御殿としては質素なつくりとされています。現存する城郭の御殿としては貴重なもので重要文化財になっています。

このお城は数年前まで年に何回も来てお客様を案内していました。かみさんはこの御殿で映画やテレビドラマの撮影が行われていることからまたまた戦場カメラマン宜しく色々な写真を撮っていました。さて傑作はあったのでしょうか。

私個人は久々で天守からの眺めに満足をしましたがやっぱり足腰は弱ってきているのを感じます。
平成になって天守閣や櫓が復元、復興されたお城は全国で100以上あるようです。城はその当時の最高の技術、文化で造られた日本の造形美の1つだと思います。

それは建築物としての美しさだけでなく、城への歴史など遠い日々へのロマンがあり現実的には天守閣からの眺めからその当時を思い、城主になった気持ちになったりします。

お城ではありませんが東京駅の丸の内駅舎は空襲、戦後の改造で外観が激変しました。現在創建当時への復元工事が進んでいます。2階建て角型屋根の駅舎を3階建てのドーム型屋根にし上にはレリーフも再現されるようです。その総事業費は500億円になるそうです。

維新後に各地でお城の破却、廃仏毀釈など文化財を一時の勢いで破壊し後になって莫大なお金をかけて復元しています。その当時の経済を優先して壊し、今になって大義名分をつくり莫大な費用をかけ偽者を作っています。

それでも変な流行的な建物より観光的施設としてはお城は人気があるようです。しかし、本当に運営できているか疑問符もあります。現存する施設は街の遺産として後世に残さなくてはならないでしょう。

しかし、残念なのは無かったものをドサクサにカッコが良いということで作り変えてしまうお城もあります。その当時の最高の技術でなく今の技術で作っているお城。そんなものはすぐ飽きられるのに。
高知城の画像
別名  大高坂山城、河中山城
構造  平山城
現存天守12のひとつ
構造  独立式望楼型 4層6階
城主  山内一豊

ちんちん電車で県庁前で下車して追手門へ向かいます。此処には城主山内一豊、妻千代、板垣退助の像などが迎えてくれます。此処の城主はNHK大河ドラマ「功名が辻」で有名になった山内一豊です。

山内一豊は、妻のへそくりによる名馬を購入、織田信長から掛川城を貰い、関が原の戦いでは家康にいち早く掛川城を進呈しその貢献により家康より土佐24万石へ出世しました。

土佐は長宗我部元親の領地でしたが西軍に属した為お家取り壊しになりました。本来家来は殿様と運命を共になります。殿様が出世する度に新規雇用をしていくので地元出身者はいないのですが、高知や薩摩などはまだその流れが出来ていなく地侍、国侍となっていました。

山内一豊は早い期間でお城を作ります。敵は長宗我部元親の家来です。何時反乱を起こすか解りません。彼らの一部を未開地開発と引き換えに郷士として登用し不満を解消。幕末維新で大活躍の郷士は彼らからが多く、知的で政治意識も高かったようです。

今ブームの龍馬は当然お城へ上がれるお目見えではなく城には一度も上がったことはないようです。

お城は標高43Mで鏡川、江の口川との挟まれた丘の上に天守を建てた。お城は掛川城と同じ造りで城下町は二つの川に挟まれた地域に東西に長く伸びています。

お城からは何処もそうですが城下が一望、疲れた身体や汗にも風が涼しく登りきったご褒美なんでしょうか。

お城の近くに「ひろめ市場」という屋台村みたいな沢山のお店があり安く美味しいものが一杯でした。魚の卵の煮付け、鰹のお寿司など食べきれなく、夕食代わりみたいな車内での一杯のつまみになりました。確かその列車もアンパンマン号だったような気がします。高知から一気に坂出へひとつ飛び。個人的だが高知城より土佐城の方が何となくあってるようなきがします。

容堂なども本来殿様になるはずも無く気ままな生活をしていたため世間知らずの殿様でなく、その意味で薩長土肥の一角を占め自由民権運動の中心的な役割を果たせたんでしょうか。

 
天守
宇和島城
別名  鶴島城、板島城、丸串城
構造  平山城
天守  独立式層塔型3重3階
城主  橘遠保、藤堂高虎、伊達宗利
現存12天守のひとつ

宇和島城はJR宇和島駅から歩くと大変で此処もレンタサイクルで訪ねました。このお城まで来るののも結構迷ったり食事をしたりで時間が掛かりました。

途中から山の上の宇和島城が見えます。ちょっと遠目からでは解りませんが四国の西南地域の中心として発展してきたようで天守は山の上に見えますが実はリアス式海岸地域で北と東は堀が巡らされ西と南は海に面していた海城だったようです。現在は埋め立てtられています。

国道から上り立ち門から山へ登っていきます。結果的に歩いて20分位です。木立が深く薄くらい道です。その道も昔の石段できれいに揃っていません。ばらばらで尚且つ苔むしています。鎧を着て一気に駆け上がる事は無理なようです。藤堂高虎の造りの守りは凄いなぁと息切れながら感心しました。

一緒に歩く人はいません。道を間違えたらと考えながら寂しく歩いて行きました。道なりにと思っても暗いバラバラな歩きにくい石段を20分も歩きます。もう息は絶え絶え。天守は藤堂高虎ではなく伊達宗利です。松山城ではあんなに多くの人がいたのに此処はなぜか寂しい。そしてのぼりがとてもきつい。

息絶え絶えにお城へ、何とか登りました。眺めは素晴らしい。まぁ何処のお城も眺めは良いのですが。此処まで毎日お城を2つづつ見ているとちょっと感動が薄れるんでしょうか。やっぱり、此処のお城の登りもきつかったが下りもきつい。手すりをしっかり持たないと落ちてしまう。やっぱり元気なうちにお城は行かないと周りにも自分にも迷惑が掛かる。一緒の相棒は今回もお城はパス。それは正解かも知れない。そんな厳しいレベルです。

昔は35基の櫓がありたいそう立派なお城だったのでしょう。藤堂高虎は此処から今治、伊賀、伊勢へ栄転していきます。上りの石垣が苔むす位ですから雰囲気は場合によっては良いのかも知れませんがその分訪ねる人も少ないのも事実のようです。
天守閣
大洲城は大変きれいな美しいお城です。2004年に木造4層4階の完全復元されました。

大洲の駅からお城までは随分離れています。駅の近くでレンタサイクルして肱川橋を越えてお城に向かいました。ところが川沿いなんですが中々お城に近づくことができません。土手の間に入ることが出来ないのです。川には鵜飼の舟が沢山係留されています。此処は鵜飼が有名なようです。

何とかお城の入り口に来て自転車をこの坂では無理なので置いて長々と歩いて行きました。小高い川沿いに真新しいお城です。

別名 大津城、地蔵ヶ嶽城
城郭 平山城
構造 複合連結式層塔型
歴代 宇都宮豊房、藤堂高虎、坂脇安治、加藤貞泰

明治に天守が取り壊されたが4棟の櫓は解体を免れました。平成16年に木造での復元されました。遠目から見て複合連結式のお城は大変きれいです。ただ、ここも藤堂高虎が改修していますので守りは厳重で天守の階段は非常に急な造りになっています。

大洲という町はこのお城を中心とした城下町ですからJRの駅からかなり離れています。この町には大分前にNHKの朝の連続ドラマ「おはなはん」の舞台の町で周りには明治の町並みが残り、ポコペン横丁と言う昭和の懐かしい生活のの再現やコレクションなどを沢山展示しています。
松山城
松山城写真
現存12天守のお城の1つ
別名 金亀城、勝山城
形態 山城
構造 3層29基の櫓と石垣
城主 加藤嘉明、蒲生忠知、松平定行

標高132Mの山頂に天守、南西の斜面に二の丸、平地に三の丸、御殿で山頂部と裾の曲輪を登り石垣でつないでいるお城で他には無いそうです。市内の何処からも見られる連立式城郭で圧巻なお城の景色です。

層塔型の天守は黒船来航の翌年に落成した江戸時代最後の完全な城郭建築、現存12天守の中で唯一築城主として瓦に葵の御紋が付されています。高い山の上ですからロープウェーやリフトに乗って行きます。しかし、降りてからも天守までは結構ハードな道のりです。その分天守からの眺めは抜群です。今日はちょっと風がありました。紅葉がとてもきれいです。

天守は戦闘時のみ天守で篭城しますので普段は平地の三の丸や御殿にいて執務しています。あの急な山を毎日登ったら大変なんでしょうか。しかし天守は普通天井板は張らず、床は板張りです。ここは各層の天井にはいたが張られ床には畳が敷けるようにまた襖もはめるように出来ています。

松山はこのお城と最古の温泉の道後温泉そして夏目漱石、正岡子規とちんちん電車、坊ちゃん電車だと思っていました。今は、NHKの坂の上の雲の舞台になっていて秋山兄弟関係や坂の上の雲ミュージアムなど観光には事欠かない町になっています。
今治城
今治城跡
別名 吹上城
形態 海城
構造   5重6階望楼型
築城 藤堂高虎 1602年
城主 藤堂2代、松平10代
遺構 石垣、壕
再建 模擬天守、鉄御門、多聞塔5棟、石垣

今治の駅から徒歩で20分は掛かるでしょうか、何とかたどり着きました。このお城は城造りの名人藤堂高虎の作です。また、瀬戸内の海水を取り入れ壕を高くしてあり遠目からも大変きれいなお城です。最も平成19年に鉄御門などが再建しているので全体的に新しいお城です。広場には馬上の藤堂高虎像が建立されています。

藤堂高虎のお城の特徴が沢山あります。守りを重視は当然ですが石垣には直線的でそりがない。虎口には枡形を重ねて厳重にしている。陸より海からの防御を重視して海側に長い多聞櫓、大量の土砂で盛り上げた内堀、厚い鉄の門の鉄御門(くろがね)など。

5層の天守閣は日本で最初の層塔型天守だったが伊勢への転封により自ら解体し丹波亀山城の天守に転用。昭和55年に復元された天守閣は無かった飾りの破風を追加しその後本丸、二の丸櫓、壕が徐々に復元、お城として整ってきた。中には地域の生活の博物館や美術館的なものも展示されています。

藤堂高虎のお城はそんなに見ていませんが当然と言えばそうですが他に比べても防御に中心があり城に行くまでが大変そして天守閣は急階段で物凄く体力が要ります。同行の相棒は私より若いがこの後の松山城以降大洲城、宇和島城、高知城とパスしてしまいました。

兎も角、瀬戸内に浮かぶ海城としてきれいなお城です。
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