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明治34年(1901)大森町、入新井町(新井宿・不入斗)に電気がつきました。大田区では一番最初についたと言われています。これは現京浜急行の前身の大師電気鉄道改め京浜電気鉄道が明治34年(1901)2月に品川延長線として六郷橋~官設鉄道の大森停車場(現JR大森駅)に開通させたことによります。

 

私鉄としては明治32年1月に日本で3番目、関東では一番最初の大師電気鉄道が六郷橋~大師まで開通しました。その当時は電気は未知なもので電気で走る車とはどんなものか開業当初は多くの見物客が集まったようです。

 

川崎大師の参拝客の為の電車ですが早く東京方面、穴守神社方面へ接続したいという目的もありとりあえず明治34年に六郷橋~(大森海岸経由)大森駅への開通を図り、翌年には京浜蒲田~穴守、六郷橋~京浜川崎と部分的に開通をしていきます。

 

今の大森海岸とJR大森駅間に京浜電車が走っていました。大森駅に接続ではなく現在の東海ビルにループ線を設けぐるっと回って走っていたようです。ですからその名残で東海ビルのところはぐるっと丸くなっています。(駅名は大森停車場前)

 

京浜電車は余った電気を有料にて各家庭に送電していました。電車事業でばかりでなく当時は電力供給事業もやっていました。これは川崎の火力発電所から大森発電所を経由して配分していました。

 

六郷橋~品川間の軌道施設が認可され電柱工事など配線が終了した大森町区域の一部で明治34年8月24日から電灯供給事業を始めました。最初の供給は大森町43戸、163灯に過ぎなかった。これはランプが主流でまだ電灯に対する認識もなく供給地域も狭かったのが要因でした。

 

その当時の大師電気鉄道の収入は108円82銭で平均1戸当たりの電気代が約250銭で米が25K買えたようで大変贅沢なものでもありました。

 

明治34年 大森、入新井、大井、明治42年 蒲田、羽田、六郷、川崎、大師 明治43年 馬込、池上、御幸、田島と徐々に増えて行きました。

 

明治34年の送電から明治42年までは冬場午後4時半から夏場は午後6時半から午前1時までの送電でした。スイッチを入れればつく便利な電灯は徐々に普及、日露戦争景気により多くの工場が建ち電力需要が拡大していきました。

 

43戸から始まった電灯・電力事業も大正2年年末には15町村1万戸に最盛期の大正10年には3万戸になったようです。第一次大戦後の大正の大恐慌により電力供給会社が競争相手の東京電灯(東京電力)に吸収合併されていき京浜電車も川崎運河等の多大な費用が必要になり電灯・電力事業から鉄道事業へ資金をシフトせざるを得なくなり22年間の事業から撤退をしました。

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上の図は大森停車場前のループ線を走る電車。下図は桜並木の六郷橋、大師間を走る開業当時の大師電気鉄道。左側の電柱には仁丹の広告があります。



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上の石は京浜電車の走っていた敷石。現在は大森のイトーヨーカドー前に保存されています。

資料、京急グループ110年史より
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