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美術館・鉄道・お城・お相撲・お友達の話など趣味のブログです。
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c6c8d6f3.jpeg周りが青々とした木々の中、池上の森の中でいつものレストランでお茶をしながら読書でもとのんびり歩いて池上に向かいます。
 
最近は特殊な本以外は読んだら処分しますので途中、池上図書館へ借りてから行きます。館内には「池上競馬」という特集が組まれていました。
 
01abb868.jpeg0069b4a7.jpeg池上競馬は明治39年から43年の4年間開催、場所は今で言うと本門寺の反対側池上線の池上駅裏側の徳持というあたりで行われました。日清日露の戦争後軍馬の水準を高める目的でその資金をねん出する為に民間に競馬会の設立を奨励その収益で軍馬育成に充てる為だったようです。
 
その後川崎、目黒、板橋の各競馬が合併して目黒競馬として設立、現在も地名に目黒競馬跡、国営競馬にも目黒記念として残っています。
 
初日の観客動員数は観覧者2500余名、会員1500名、1等客240名2等客750名で売り上げが賭札数13362枚1枚5円ですから66810円、今のお金で4億6千7百万円だそうで凄い売り上げです。
 
来賓は東伏見宮御使、樺山大将、大蔵中将、久保田前文相など錚々たる人が見えたようです。池上は都心に近い、周りに大きな構築物がなかった。東京都横浜の中間点と云った事で開催されたようです。
 
競馬は賭けごととして色々問題も有り賭けごと禁止になったり衰退繁栄を繰り返したようです。面白いのは明治天皇も好きで吹上御苑でも明治8年から17年まで社交の場として鹿鳴館と共に機能したようです。
 
2e3a9053.jpege0795137.jpeg写真は徳持のポニー公園内にある池上競馬の碑です。(池上6丁目30番)

 
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a8faf596.jpeg4d1b2855.jpeg川崎砂子の里資料館へは暖かい日だったので歩いて川崎へ行きました。帰りは六郷橋を渡り旧東海道にある止め天神の北野神社、そして六郷神社へ寄ってきました。
 
70d9ce0f.jpeg大田区ウォーキングコースで何度か書いていますから詳細は省きます。北野神社は時期的に合格祈願で多くの人が訪れているかと思いましたが相変わらず寂しい。此処は力石があるのでもう一度見ようと思っていました。
 
c7dbc1ef.jpegb15ffe34.jpeg前に来た時は地面に置いてありましたが今回は綺麗に整備され、コンクリートで固められ、持ち上げるのでなく擦るようになっていました。時代何でしょうか、無理に持ち上げて怪我でもしたらと云う事と訪れる人が高齢になり擦る方にしたのかもしれません。
 
66c14eee.jpegb0700507.jpeg六郷神社は、この地区の総鎮守で江戸名所図会にも出てくる由緒ある神社です。源頼朝が寄進したと言われる手水石、区内最古の狛犬、正面の太鼓橋は北条景時が寄進と言われています。また昔の六郷橋の親柱など沢山の歴史物があります。しかし此処には力石はなかった。
 
ひょんな事から独立行政法人産業技術研究所の人から大田区内を歩いているなら力石の所在も調べてほしいと依頼され少しづつ行った時見ています。しかし、未だ力石が有ると所は私は二か所(山王熊野神社・六郷北野神社)しか知らない。その人は石の成分を研究しているようでどんな石が力石になっているかを見たいそうです。

江戸・明治時代に全国の寺社には力石を用いた力試しが行なわれていました。昔は力自慢が労働力の象徴だったり、お祭りの行事として行なわれていました。昭和に入り労働の機械化、娯楽の多様化でその必要性がなくなり、段々廃れて行ったようです。

現在は市町村で有形文化財として登録されているのが日本では350個あるようです。そして幾つかの力持ち大会も現在まで行なわれているようです。少しづつ区内の力石を探してみます。
 
995feaed.jpeg京急蒲田駅前の大田区産業プラザで7日から9日まで「おおた工業フェア」が開催されています。ものづくり大田の各会社がブースを出して製品の紹介、商談会が行われています。おおたのモノ作りの技術はロケットや新幹線などの部品にも多く採用されています。

全くモノづくりには関係ない私は、今回参加している企業の社長から誘われ見に行きました。誘われた理由は「下町ロケット」を展示しているよ。と云う事でした。

欧米ではフェラーリやBMWといった有名企業が各国代表チームを応援しているそうですが日本ではそりを開発応援する企業は無く、海外のそりを購入していたそうです。

7421efcf.jpegそこで大田区内の中小企業の有志が集まり設計図に従った各会社の得意の部品を無償で持ちよりモノづくり大田の底力を示そうと立ちあがったようです。

そして昨年末の全日本選手権ではコースレコードに近い好タイムで優勝。改良を加えソチ五輪以降の冬季五輪を目指すようです。

なぜ大田で開発に乗り出すかは、世界に日本のモノづくりの将来を示す事、低摩擦化技術が必要になる風力発電、CFRPと金属部品を融合させる技術による航空機産業などの産業に大田区の中小企業が参入する一歩にすることだそうです。

将来フェラリーやBMWを向こうに回して下町ボブスレーが走りまわる事を祈っています。是非大田のモノづくりが不景気の町工場としてマスコミに取り上げられるのでなく世界的な産業地として羽ばたいてほしいものです。
 

 
昨日は久しぶりと言うより何年振りの御勉強会に出席、2回講習ですが今回は第一部大田区の神社と旧地名、第二部大森貝塚とモース博士と言うタイトルです。
 
1部はスライド中心で大田区の神社を見せて戴きました。やはり明治の廃仏毀釈と戦災で数は減っているようです。ちょっと歩けばお稲荷さんが沢山ありますがそれでも昔に比べれば少なくなっているようです。
 
2部は大森貝塚保存会会長で大田区史委員でもある方でモースの人となりや心情など今のボストン美術館、セーラムのピーボディミュージアムの基礎を作ったといったただ単なる考古学者の話でも動物学者の話でもなく、自分を犠牲にしても集めたものを町に、美術館へ寄付する。それも高級な物でなく其の当時の日本の庶民の生活用具など今、残念がら日本にはない物がアメリカにある。
 
同じように西洋にはシーボルトが持っていったものが展示されている。そして日本にはもうない物ばかりで日本の生活を見るには外国へ行かなければ見られない。
 
現在の日本も大田区も歴史ある物を壊し新しい物ばかりになっている。歴史ある物との共生ができない。新しければモダンで快適だと勘違いしている。と云ったお話でした。
 
1時半から4時まで久しぶりの座学、考古学でなくて良かったのですがやはりちょっと疲れました。6月の最後の講義まで事前にちょっと予習をしようと思っています。

 最初に田園都市と云う言葉が出たのは明治40年(1907)内務省地方局発行の「田園都市」と言われています。
 
渋沢たちが動いた田園都市は当初大正4年に荏原郡の地主有志が渋沢に荏原郡一帯の開発計画の実施を依頼したことから始まります。
 
大正7年田園都市㈱の販売する多摩川台住宅地は渋沢栄一が筆頭に服部時計店の服部金太郎、商業会議所会頭中野武栄らが中心となって土地の買収を始めます。大正10年には地元大地主の奔走で48万坪を買収。
 
渋沢の考えていた田園都市は清浄な空気や豊かな緑、青い空と太陽の光と云った田園の長所とあらゆる生活必需品が揃い医療、社交、娯楽、宗教その他の諸設備が整った都市の長所を組み合わせたものと考えていました。
 
田園調布に象徴される造成地による街づくりはハワードが試みたロンドン郊外のレッチウォースと造形的には似ているとはいえ、異質なものであった。欧米の田園都市は労働者階級の生活を改善を目的とし、日本では職住分離による有産知識者の生活空間として造成地が田園都市の名で形成された。
 
こうした郊外住宅地は馬込、洗足等に開かれ、大正11年の池上電鉄、12年の目黒蒲田電鉄、15年の東京横浜電鉄等の私鉄の発展にうながされた。特に職住分離の傾向は関東大震災によって強まり田園都市等の名称を冠した造成宅地を促す事になった。
 
大正11年に第一回の販売予約が洗足地区から始まり2割の頭金、残りは10年の月賦などの商法により売れゆきは好調だった。多摩川台は関東大震災直後の大正12年から20万坪の販売が始まりました。洗足と違う点は諸設備を整えて販売した事です。
 
販売契約には色々条件が付いています。1、土地は住宅とその関連の建物、庭園のみに用いる。2、購入後6ヶ月以内に住宅を建てる。3、1区画の分割はしない事。4、建物は3階以下。5、建物面積は敷地の5割以内。6、住宅の工事費は坪あたり120円いじょうとする。などの条件が付いていました。
 
販売した田園調布は道路、公園、広場と云う公共部分を広くとり駅を境に住居は放射線状に構え、反対側には商店、娯楽などの地区とし住宅地と商店街を分離しました。

大正になり日本経済の発展に伴い会社員というサラリーマンが登場し増加してきた。当時の労働者の多くは勤務先の工場の近くに住んでいましたが、人口の増加に伴いまた関東大震災などによって郊外へ住居を求め始めていました。しかし、この地区の販売価格は色々な制限も付き当初からサラリーマンでも上層の人しか買えないようなものでした。

 渋沢栄一は、徳川慶喜の弟昭武に随行してのヨーロッパで実地の資金運用、進んだ社会、経済制度、組織の実際や生産技術に触れ、国民を豊かにする基本を体得したそうです。
 
帰国後、自ら設立に関わった第一国立銀行を始め鉄道、汽船、紡績、製紙、製糖、化学、造船、建設、ガス、電力など多くの株式会社の設立に助言、経営指導など日本の近代経済社会の基礎を築きました。
 
渋沢の考え方、哲学
1、株式会社組織により多くの人々の知恵と資金を集め、活発な企業活動を展開して豊かな社会を実現する。
2、国境を越えて自由で活発な市場経済を実現し、人類全体を豊かにする。
3、市場経済の中で取り残されがちな弱者を支援する社会福祉や社会の基礎として教育に力を入れる。 

黒澤貞次郎の考え実践と全く違うものです。黒澤の工場の隣の新潟鉄工では労働争議が発生しているが黒澤村では全く起きていない。そして同時代の宮崎での武者小路実篤の新しき村とも違うようです。
 
 

 大田区には二つの全く違った田園都市構想がありました。一つは大正3年黒沢貞次郎が作った吾等が村、そして大正11年から職場と住居を分離した田園都市生活の為の土地分譲をした渋沢栄一の田園都市株式会社です。
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黒沢貞次郎は、日本にタイプライターを最初に銀座で販売した人です。この人の物語に関しては簡単に書きますと16歳でアメリカに行き独学で勉強した英語を使い苦労しながら当時最新のエリオット・ハッチ・ブックタイプライター社に務め縦書き文章タイプライター、ひらがな、カタカナの和文タイプライターの試作に成功。
 
明治18年5月に現在の銀座並木通りに2坪の店を開く。後に日露戦争で外務省に買い上げられ、徐々に社会に浸透をしていき、現在もある銀座6丁目角の黒澤ビルへ移る。このビルは自身で設計、工事の監督もしたビルで設計、建設学上貴重なビルだったそうです。(現在のビルは建替えられています)

 大正3年蒲田駅にほど近い(現在の富士通、区民プラザあたり)2万坪を購入、貞次郎の究極の田園都市の実現に名付けて「吾等が村」を建設。考え方は「都市生活の幸せは自然と文明の調和によってもたらされるべきであり生活の地は近郊の蒲田にありこの地で田園都市の恩恵を亨有するところに「吾等が村」の理想がある。現実をはなれざるユートピア、これぞ「吾等が村」の使命なりと言っています。
 
滞米中に見聞きした田園都市を参考にしたようで文明の進歩による近代化、工業化を否定はしないが近代化の中で人間が人間らしく生活をするのはといった一つの答えのようです。
 
自らの手で一緒に働く仲間の豊かな生活を守るための村を築く。工場と並んで食堂、社宅、子供用プール、共同浴場、給水塔、菜園、幼稚園、小学校、公園を完成。
 
物資不足も個人の菜園や会社の菜園での供給、大家族主義の自宅即会社で社宅113戸人口800名、工場で働く従業員200名、電信用和文タイプライター、国産和文印刷電信機(和文テレグラフ)の開発製造、事務用品の製造でした。後に富士通との仕事、NTTの仕事とタイプライターから変わっていきます。
 
商売上の哲学はEverything best in office appliance  Slow but sure などお客様第一主義で、もうひとつは報国の思いを納税と言う形で商売上得た利益は出来る限り国に還元するということで「私の眼の黒いうちは店の法人化はしません」が口癖で個人長者番付1位になった。これは彼が望んだ事でなく1銭、1円でも多く税金を払うという考えの結果だったそうです。
 
しかし、亡くなった後の相続は大変だったようです。黒澤村が出来てから近くには大倉孫兵衛、和親の「大倉陶園」大倉から呼ばれた各務クリスタル、甲斐庄楠香(かいのしょう ただか)の「高砂香料」「松竹キネマ蒲田撮影所」など当時の西洋の香りがする高い理想ををもった会社が集まってきました。
 
そこで誰云うことなく「流行は蒲田から」「蒲田モダン」と云う言葉が発生していったようです。
 
 


左が庚申供養塔で右は近くの鈴ヶ森で火あぶりになったお七地蔵(大森密厳院)

大田区を歩いていると沢山の庚申塔を見ます。庚申塚、庚申供養塔などと呼ばれています。

庚申信仰は中国の道教の思想に基づく守庚申の習俗で日本では平安時代に宮廷行事として行なわれています。人間の体内には生まれた時から三尸(さんし)の虫がいてこの虫は庚申の日の夜、人が寝ている時に天に昇り天帝にその人の罪科を告げに行く。


天帝はその罪科を聞いてその人の寿命を左右する。三尸の虫はその人が死ねば自由になるので早く死ぬ事を願っている。だからその日は寝ないで三尸の虫が行けない様にするという行事です。

この話に寄せて庚申の日の夜、寝ないで飲食をしたり寄り合いで相談事をするという江戸時代に一般化したようです。一種の民間宗教でありながら娯楽化したものになっていった様で人々は村単位などで講を作り60日に1度回ってくる庚申の日は夕方から当番の家に集まり床の間、仏間に青面金剛の絵像をかけ夜を明かすそうです。

仏教、神道に結びつき「見ざる、聞かざる、言わざる」三猿思想とも結びつき日本全国に伝わった。

庚申の年、1年に7回庚申の日がある7庚申の年、講中の記念すべきことがある年などに現世と来世の安楽を祈願して庚申塔を造立し村々の辻に建てました。

大田区内では98基の庚申塔があり馬込、雪谷、上池上、久が原、鵜の木など台地部に多く平地部は戦災などで散逸したものと考えられるようです。区内の特徴として神道の影響をうけた猿田彦命(さるたひこのみこと)などを刻んだものはなく仏教系のものばかりで1番古いのは寛文元年(1661)の田園調布南の密蔵院の地蔵菩薩立像です。

写真の左側の塔は阿弥陀如来坐像で大田区では2番目に古いものです。石造り舟形の塔で塔身には法界定印の阿弥陀如来の判彫りで全国的にも珍しいそうです。(光背に寛文2年と銘文)

庚申塔には色々な仏像が彫られ地蔵、阿弥陀、観音、釈迦、青面金剛、一猿、三猿二鶏、文字だけ(帝釈天、青面金剛、庚申、南無妙法蓮華経など)があり多いのは青面金剛立像で南関東の特徴とされています。

明治時代には政府から庚申信仰は迷信として街道筋の塚は取り払われたり道路拡張により撤去されたりして現存するのは寺社、私有地へ移転されたものだけのようです。

仏教宗派別ですと真言宗が区内では16ヶ寺、日蓮宗、曹洞宗などは1~2寺ですが日蓮宗系の庚申塔が15基もあり池上本門寺の影響でしょうか。

現在でも講中は存続されているところもあります。昔の1つのレジャーの要素もあり集団での相談事の場でもあったようです。

庚申

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9A%E7%94%B3

三尸とは人間の体内にいる虫で三虫(さんちゅう)とも呼ばれています。上尸、中尸、下尸の三種類で上尸は道士の姿、中尸は獣の姿、下尸は牛の頭に人の足の姿と言われています。

道士は道教を信奉し教義に従って活動する人で男性は乾道(けんとう)女性は坤道(こんどう)と呼ばれる。
簡単に言えばキョンシーの映画に出てくる。

大森寺 大森南5-1-2

元々は大林寺のお寺で墓地は無い。

境内に明治32年に発見された森が崎鉱泉の源泉の碑があります。また鯉の句碑、鉱泉由来の碑などがあります。

 

明治維新当時、官軍に敗れた烈士彰義隊の一部が船橋から船で逃れたが暴風に遭って難破しその死骸が森が崎に漂着した。土地の者が発見し葬り塚を築いた。その無縁堂が今の大森寺だそうです。

根拠のない話ですがこの無縁塚に埋葬された武士の若衆が夢枕に立ち霊泉の湧く事を暗示し掘ったら鉱泉が出たという話もある。

 

法浄院 大森南5-1-18

大森寺の裏側にあり森ヶ崎観音と呼ばれています。三縁山 法浄院は無宗派のお寺で別院として浦賀日月院、伊東日徳庵、木曽御嶽山観音堂などがあるようです。ここは墓地分譲中。

 

狭い敷地に本堂、浄心堂、観音堂、地蔵堂などがあります。


航空機事故慰霊地蔵尊(水かけ地蔵、森が崎観音)

昭和13年8月24日、森が崎で航空機の墜落事故があり85名が亡くなった。日本航空輸送のフォッカー機と日本飛行機学校のアンリオ機が空中衝突。両機の乗務員は数名だったそうですが救出しようと駆けつけた工場の50名と近隣の住民数十名が機体に近づいた瞬間ガソリンタンクが爆発、付近一帯が火の海となり多くの焼死体が続出した。死者85名、負傷者76名に及んだようです。

 

多くの人が水がほしいと叫びつつ亡くなったそうでその方々の慰霊を供養するため水かけ地蔵が祀られた。

 

元々住職がいませんでしたが開祖になる空光和尚の枕もとに慰霊の諸霊が現れて自分たちを供養する人々には「いかなる事故災厄をも除くであろう」とのお告げがありここの住職になったそうです。

 

地蔵堂には安楽、開運、身代わり、子育て、延命、先入りの各地蔵さまが安置され、中には多くの千躰地蔵がおり、腕輪念珠をかけて供養してくださいとの書きつけがあり地蔵さんの腕には念珠がかけられています。

その他に小さなお願い地蔵、身代地蔵があり願い事を御地蔵さまの御衣に書いて背中に自分の名前を書いて地蔵堂へ納める。という絵馬の代りなんでしょうか沢山奉納されています。

 

法浄院
http://koia.web.fc2.com/houjyoin.html

湯の町森が崎(森ヶ崎)

明治中期から戦前まで森が崎周辺は湯の町として大小の旅館や料亭などが立ち並び繁栄をした歓楽街だった。今は東京労災病院、東京都の浄水場などでその面影は全くない。

 

大田の史話2によると明治27年地元の田中新造がこの地を開発し灌漑用井戸を掘ったところ偶然鉱泉を発見、森が崎宣伝案内には、含鉄アルカリ性食塩泉でラジウムヘマナチオンの放射性成分もあり増富鉱泉に次ぎ効能あらたかで諸病に効くという。また「湾頭を渡りくる潮風はあたかも吸入器を常用するに等しく散歩一巡すれば神気頓に爽快」と現在の温泉保養地の効能を掲げています。

 

交通は京浜電車で大森山谷、梅屋敷で下車、十五丁徒歩か人力車で50銭だそうです。

 

明治37年には旅館兼割烹店は23館、養生、盛平、平盛、富士川、大金など、現在は森が崎バス停前で場所は違いますが盛平はそば屋に大金はガソリンスタンドになっています。盛平蕎麦屋には店内に昔の旅館時代の写真が飾ってあります。

 

当時は旅館以外に温泉病院もあり今で言うスーパー的なものもあり長期保養も出来、春は貝を拾い、夏は潮浴、秋は魚を釣り、冬は籠りて雪を賞すると。そして競馬場もドイツの温泉保養地バーデン・バーデンみたいなもので東京から近く多くの文人墨客も訪れています。

 

人が多く集まれば当然宴会となり芸者置き屋も整い一大歓楽街になっていく。田圃は掘り返されその地には大きな釣り堀ができ、競馬場もできひなびた地は大人の一大レジャーランド化となっていきました。

 

しかし第二次大戦時は旅館は軍事工場の寮となり衰退していきました。ここで面白いのは昔の宿帳が残っています。

大正12年12月27日から29日

顔丸目口並色青白、中肉中背、頭五分刈り、キモノ銘仙ハオリ

平民 著述業 堺利彦 52歳

社会主義運動の先覚者で合流者は日本共産党の徳田球一

 

府下大森馬込村 顔細面目口並、中肉中背、色浅黒、髪オールバック、洋服、著述業 藤浦洸 三十一歳

顔丸目口並 中肉、背五尺五寸位、色浅黒、頭ハイカラ、洋服平民 大森区馬込町 著述業 尾崎士郎、三十六歳


尾崎士郎は昭和8年5月9日午後四時から10月6日午後七時までの長期滞在している。ここで人生劇場(青春篇)の後半部を書いたと言われている。

 

共産党員から馬込文士村の多くの人々と色々な人が訪れてします。それにしても宿帳の書き方は法律で決まっていたんでしょうが旅館経験者としては興味深い

 

温泉の碑は現在盛平そば本店の近くの大森寺にある。
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真ん中が鉱泉の碑


京急大森町付近の東海道を歩いていると山谷とか谷戸といった聞きなれない地名が出てきます。山谷は台東区の日雇い労働者の寄せ場「ドヤ街」が有名です。

 

台東区の山谷は諸説がありますが江戸時代にこの辺に3軒しか家がなく三家、三屋と呼ばれいつしか山谷になったと言われています。また此処は奥州街道、日光街道に沿った地域で江戸時代から木賃宿が集まる地域だったようです。

 

大森山谷は諏訪神社の由来では「山野」と称した原っぱで今の美原通り(北原、中原、南原)の三原に続く「三野」で東海道の発達とともに三原が美原に改称したのと同様に人が住みだすと山野が山谷になったと考えられるそうです。谷(たに)でなく人が集まる「や」になったようです。ここは今でもバス停に本宿という名称が残っています。品川、六郷の宿の間中の宿だったということでしょう。

 

東山谷(大森東二丁目)南山谷(大森西三丁目)北山谷(大森西二丁目)と三地区で構成されていたそうです。現在は住所表示もなく大森消防署山谷出張所、区立山谷公園だけのようです。京急も大森町駅と梅屋敷駅の間に大森山谷駅があった。


谷戸

鎌倉時代に幕府の家人が住んでいた事に起源があり家人を「やと」と称しその後谷戸の文字が当てはまれたようです。余りしっかりした文献がありません。現在は谷戸の交番、谷戸三輪神社などがあります。

 

本来の谷戸は丘陵地が浸食された谷を言うはずですがここには丘はありませんし谷でもありません。

 

山谷ドヤ街、貧乏谷戸と言葉の感じでは、あまり上品な感じではありませんからこの名前が風化していったんでしょうか。

 

48f21d59.jpg東海道一本灯篭台石(大森西5-2大森三輪公園内)

元は旧東海道梅屋敷寄りの道端にあり江戸後期東海道の通行人の目印として富士講の人々が寄進した常夜灯。

 

大正大震災で崩落し三輪神社に移築されたが昭和61年に境内改築のため大田区へ寄付された。大田区は火袋、竿石など欠落したものを復元し三輪公園に移築しています。(画面で白い部分が復元されたところ)

 

元々は富士講の人の寄進で富士山にサル3匹がかかれているのは庚申の年に富士山が出来た事によるものらしい。台石には多くの富士講の人の名が刻まれています。本来有ったところにあれば良いのでしょうが通行の邪魔になり本来と違う場所に設置されています。

 

 

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