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美術館・鉄道・お城・お相撲・お友達の話など趣味のブログです。
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大森停車場階段鉄柱鷲神社萬霊地蔵京浜電車敷石蜜厳院(お七地蔵)磐井神社(井戸、鈴石)三原通り馬頭観音三原不動尊海難供養塔西南・日清の役碑羽田道厳正寺貴船神社ふるさとの浜辺


写真:ふるさとの浜辺公園の様子
これが東京大田区の渚かと思うくらいの白い人口渚 ふるさとの浜辺

2007年にオープンした都内初の区立の海浜公園で区内を流れる内川の河口部分を埋め立てて作った公園。人口干潟で磯遊びや水遊びが楽しめます。ビーチバレー、ビーチサンダル飛ばしなんかも出来ます。もう此処の景色はリゾートです。


朝は6時から開くのを待って散歩する人、砂浜を裸足で走っている人など夕方から閉門の9時まではアベックが楽しく語らっていたりしています。水質の問題で泳げませんが水辺での遊びはオッケイです。広さは総面積18ヘクタール。園内には大きな滑り台などもあります。また、大森海苔ふるさと館があります。

 大森海苔のふるさと館
大森は海苔で有名であったその歴史を後世に伝える為に開館した施設。
海苔の1年間の作業工程、海苔養殖の道具、べか船、歴史などを展示しています。午前9時から午後5時まで開館、入場料無料。色々海苔のイベントを開催しています。

これでコース終了になります。この近くにはBIGFUN平和島(温浴施設、食堂、シネコン、ゲームセンター、業務スーパー、ドン・キホーテが入居)平和島競艇、毎日他の競艇場を楽しめる競艇劇場(場外舟券販売施設)があります。ここからはJR大森駅、京急平和島駅にバスが出ています。天然温泉でひとっぷろをお勧めします。 


大森海苔ふるさと館
http://norinoyakata.web.fc2.com/02guide.html
 大森東口ウォーキングコース①から⑦までの参考文献

町場ガイド  西村敏康監修   月刊おとなりさん
大田区ウォーキングガイド  西村敏康 編著  月刊おとなりさん   
大田の史話 1   大田区史編纂委員会
大田の史話 2       〃
大田区史蹟散歩    新倉善之  学生社
馬込文士村ガイドブック   大田区立郷土博物館
大田区の史跡めぐり         〃
大田区海苔物語           〃
大田区の歴史        新倉善之   名著出版
京急グループ110年史     京浜急行電鉄
昭和の風景 蒲田・羽田界隈と京浜電車  石川利夫  国際書院
大森の春秋  2000年版  大森消防署地誌編集委員会
羽田糀谷の年表    伊東奨学会
大森沢田  昔   蒲田4地区地名保存委員会
池上線 目蒲線   北川俊一   個人の出版
警視庁カメラマン石川光陽写真集
大森蒲田ことがら辞典   与倉秀雄   城南タイムス
わたしの住むまち再発見 大田区  大田区企画部広報課
写された大田区―懐かしい、まちとくらし 大田区立郷土博物館編

これでJR大森駅からのウォ-キングコースは終了ですが約3時間半位の時間がかかります。途中食事をとれば1日コースになります。書いていて言うのは可笑しいですがこの時期は余りお勧めではありません。夏以外またはコースを省略する事をお勧めします。
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大森停車場階段鉄柱鷲神社萬霊地蔵京浜電車敷石蜜厳院(お七地蔵)磐井神社(井戸、イチョウ等)三原通り馬頭観音三原不動尊海難供養塔西南・日清の役碑羽田道厳正寺貴船神社ふるさとの浜辺

 

厳正寺 大森東3-7-27

浄土真宗本願寺派 山号 柳紅山 旧海岸寺 京都西本願寺旧末寺

文久9年(1272)北条重時の六男法円が開創、海岸寺として天台宗に属していた。2世法密の時浄土宗に転じ応永の頃(13941428)浄土真宗に改宗現在に至る。

 

10世祐智は天正元年(1573)石山寺に参り信長と交戦、11世祐恵の代に厳正寺と寺号を改めた。

 

梵鐘は山門の上にある。17世祐尊の代安永元年(1772)に品川住の鋳物師渡部亦市によって鋳造。寺の総門戸徒、大森村の講中の協力により寄進。この地に浄土真宗の念仏講があったようです。この寺は本日714日に行われる「水止舞」が有名です。

 

巌正寺 水止め舞
水止舞

毎年714日に行われる都の無形民俗文化財、一種の獅子舞で水とめの舞と言われる。当寺伝では2世法密は元亨元年(1321)の干ばつに七日間の雨乞いをして結願の夜、竜神を作り、海に浮かべ読経を始めたところたちまちの降雨。

 

3年(1323)は逆に50日に及ぶ長雨に悩まされた。そこで竜頭3つを作り止雨の祈願をし里人に水止めの獅子舞をさせたところ、たちどころに晴天になった。以来、毎年盂蘭盆会の714日に村人をあげて今日まで伝存された。

 

異風を持つ特殊な郷土芸能としてマスコミにも取り上げられている。雨乞いでなく水止という風俗は民俗学的にも珍しいようです。

 

荒縄で縛られた二頭の竜を少しづつ境内へと行く道行き、ホラ貝を吹く竜、水を掛ける民衆、ホラ貝は竜の泣き声で、そして境内へ入り獅子舞へとなっていく。

水止舞Uチューブ
http://www.youtube.com/watch?v=mvwYRlgNako

 http://www.casttv.com/video/zmnxmc1/-video

追伸
先ほど墓参に行ってきました。
多くのマスコミの方が撮影しています。

それにしても昨日の花がもう駄目になりそうでした。
今日も暑い。

 

 

大森東口ウォーキングコース
大森停車場階段鉄柱→鷲神社→萬霊地蔵→京浜電車敷石→蜜厳院(お七地蔵)→磐井神社(井戸、イチョウ等)→三原通り→馬頭観音→三原不動尊→海難供養塔→西南・日清の役碑→羽田道→厳正寺→貴船神社→ふるさとの浜辺




海難供養塔
(大田区大森東1-27付近)

大森東小学校の前の一角に大きな供養塔が建っています。安政2年(1855)江戸市中全域と神奈川に及ぶ魚貝業者をはじめ江戸町人などによって再建されたものです。

 

東京湾でも屈指の規模を誇る。高さ2.3Mもある五輪塔です。供養塔の墓域も広くまわりにはいくつかの碑もあり、講の事務所もあります。

 

美原通り馬頭観音(川島海苔店)

馬頭観世音は馬が農耕や交通用具だった昔、亡くなった馬を供養するために建てられたものです。

 

大正時代に大森神社の近くの馬力屋さんが火事になり8頭の馬が死にその供養のために建てられていました。馬力屋は今の大森海岸交差点前の街道にあった。空襲により倒れてしまったのを川島海苔店のご主人が今のところに祀ったようです。

 

西南・日清の戦没碑 (大田区大森中1-1)大森警察署の裏にあります。大森村から両役に従軍した兵士の名を刻した大きな2つの碑です。
明治
10年の西南の役碑 高さ163M

明治2728年の日清の役碑 高さ36M

西南の役の碑は全国でも数が少ない。書は山形有朋

 

大森警察の建物の前身は大森区の区役所になっていてその時に建てられたようです。大森区役所はこの地域が一番発達していた事、区内で新しい建物だったのでとりあえず入居したようです。後に蒲田区と大森区が合併して大田区なって区の中心として新井宿に移る。

 

大森東口ウォーキングコース
大森停車場階段鉄柱→鷲神社→萬霊地蔵→京浜電車敷石→蜜厳院(お七地蔵)→磐井神社(井戸、イチョウ等)→三原通り→馬頭観音→三原不動尊→海難供養塔→西南・日清の役碑→羽田道→厳正寺→貴船神社→ふるさとの浜辺

磐井神社の道路向かい側は現在マンション群になっています。昭和40年位までは大きな料亭が並んでいました。住所で言うと大田区大森本町1・2丁目付近は昔有名な花柳界だった。

三業地とも言われ料理屋,待合,芸者置屋をまとめていう花柳界特有の商売です。三業地は警察の許可地域内での営業になります。現在の地域で言えば鈴ヶ森辺りから三原通りの内川あたりまでだったようです。

現在でも三原通りの品川から見ると左側の平和の森公園側には新地町会と名前だけ残っています。また、そこそこ昔の料理屋、待合風の家が残っています。

明治30年代大森海岸の海水浴に訪れる客を目当てに次々と開業していきます。大正時代に三原通りの東側の海が埋め立てられ都新地が発生していきます。

大森花柳界が最も隆盛したのは昭和10年代で芸者380人、品川、森ヶ崎を合わせると千人と言われています。料理屋は殿堂式の構えを持つ立派な造りが多くなり小町園、悟空林、福久良が有名でした。

戦後は進駐軍の為の占領軍用慰安施設となる。小町園、悟空林、楽々などが開設していきます。東京に25ヶ所ができたそうです。しかし、兵士の間で性病が蔓延、アメリカ本土の世論などにより21年3月には公娼廃止。

昭和25年頃徐々に客足を取り戻しましたが高度成長と共に粋な旦那衆から法人客になり、昭和44年12月の悟空林の火事により他の料亭も次々に閉店、跡地はマンションになって行きました。

もう昔の面影はありませんが先ほど書きました新地町会、大森本町北町会はその雰囲気を残す家々がまだ幾らかあります。馬頭観音の前にあります「江戸一」の女将さんはその昔の話の生き字引のようです。



今回歩いている大田区の東海道筋は品川宿と川崎宿までの間です。コースはあくまで散歩を兼ねた史跡めぐりになりますので時代的にはバラバラになります。

友人から時代考証をしているのか、コース内の時代がバラバラとか色々ご指摘を戴いております。最後には時代的にあわせたもの、テーマ毎にはしたいと思っています。それには私は大田区のことが知らな過ぎです。

今年の春の統一地方選で選挙のお手伝いを1ヶ月しました。大田区内を何度も車で回っていましたがこんな所にこんな物がといった初めて物語が大変多かったです。

前から書いていますが私は唯散歩をするよりその場の景色、史跡、名産を食べながら歩くと言う1つでなく幾つかを兼ねさせたいと思っています。実際にそのように歩いています。自宅近くより余り行かないところの方が新鮮で緊張して発見が多く歩くスピードも都会の方が早く運動にもなります。

私にとっての散策は1、時間つぶし(やったという自己満足か) 2、運動 3、史跡などの発見、確認(自分にとって) 4、郵便局スタンプ 5、名産 特別有名でもなくても好きなものでも(煎餅・和菓子・佃煮等) 6、博物館、美術館など見学等の色々なものが重なって幾つかが出来ればと思っています。

今歩いている道は江戸期には三原通りから梅屋敷までに至る街道筋はあいの宿場で大森の立馬と呼ばれその先には蒲田新宿、六郷橋際の茶屋、土産物屋などが点在していました。

明治期には区内の商店街を形成していたのは大森三原通り(大正まで区内で最も賑わった商店街)、池上の門前町(花屋、石屋、呉服、酒屋、葛餅・煎餅などの土産、旅館など)羽田の猟師町(海産物、呉服、雑貨、酒、お菓子など)

交通機関(鉄道、幹線道路)が出来、コースが変わると商店街も変わっていきます。川崎大師、穴守稲荷神社、池上本門寺など寺社の参詣による賑わいはそんなに変わりません。宗教の強さなのでしょうか。

そんなこんなで史跡の多くはあまり変化をしない寺社を中心にどうしてもなります。また、コース上古墳から現代建物まで色々なものになります。しっかりしたコースは2~3年後になると思います。


今日のバロン
階段バロン
この写真はちょっと古いです。今は大分重くなりました。
ママリンが最近撮ってくれません。

気持ちんよかバロン
お願いしたら早速アップしてくれました。
水玉は冷却ジェル 撮影 ままりん

大森停車場階段鉄柱→鷲神社→萬霊地蔵→京浜電車敷石→蜜厳院(お七地蔵)→磐井神社(井戸、イチョウ等)→三原通り→馬頭観音→三原不動尊→海難供養塔→西南・日清の役碑→羽田道→厳正寺→貴船神社→ふるさとの浜辺

磐井神社について(大森北2-20-8)
西暦
513年に大己貴命(おおなむちのみこと・大国主神)を祭神として開創されたと伝えられる。当社に残る文化9年(18125月の社伝略記(大田区史)をみると祭神は神座正面が応神天皇、左が大己貴命、仲哀天皇、右が神功皇后、姫大神とあります。

 

いつの時代にか大己貴命以外に4座の神々が増えています。式内社調査報告書(S51刊 皇学館出版部)によれば「元は大己貴命を祭っていたが天正年中に八幡という大神を迎えたに伴い大己貴命は主神の座を退き、八幡神にそれを譲ったものと思われる。

 

斜陽の古社磐井神社はその活性化のために、武家の信仰によって流行した神祗八幡大神を東海道の江戸の入り口という要路に面した利点を生かして神社の発展のためにどうしても祭祀する必要があった。

 

磐井の井戸

社名の由来でもある井戸は伝によれば祈る者の願いが妄願であれば水は変じて塩味になる。正直であれば清水になる。近国の人はこれを奇端として病者に飲ませる効験あらたかでたちまち病気が癒えたので薬水と呼ばれた。(実際は地下に大きな岩盤がありその岩盤を掘りぬいたもので海辺にありながら岩間から湧き出る水は真水である。大田区史より)

東海道筋で多くの人が往きかうので人々の喉を潤しながら名水になり神水、薬水となり伝説が生まれたようです。

 

鈴石伝説

社伝によると神功皇后が長門の国豊浦に船を止めた時真砂の上に1つの神石があった。その石は応神天皇誕生の時は産室に置かれた。その後筑前の国香椎宮へ納められた。聖武天皇の時代宇佐宮へ勅使として赴くにこの石を授けた。延暦元年(782)のその嫡孫が荏原郡多摩川の辺りに居住、当社にこの石を納めた。

 

石は鶏卵の形に似て色は青く、打つと鈴の音がしたので鈴石といわれた。この石を磐井神社へ鎮座したので社地を鈴石森というようになった。

 

鈴石が地名にとなっているがこれはちょっと無理があるような気がする。鈴ヶ森は品川区で一般には刑場で有名なところです。石の話と鈴ヶ森と云う地名の時代が違います。鈴ヶ森と云う地名は江戸後期からです。延暦年間は782806です。

品川宿に東海七福神という正月の運動不足解消策かスタンプラリーかより多くの神仏のご加護を求めるものか磐井神社は地域は大田区ですが品川の東海七福神に入っています。

 

この他に松下烏石が納めた烏石と呼ばれるものもあります。共に非公開。この神社は万葉集に出てくる草陰のアライのさきの笠島を 見つつか君が山路こゆらむという歌の笠島が何処かアライがどこかというミステリーがあります。この神社の小さな池に祀られている小島(笠島)というがそれは違うようです。

 

文人の石碑群

社殿の北側の奥に4基の石碑があります。

烏石碑で元文6年(17413月に松下烏石が奉納した由来が記されている。

天明6年(1786)の狸筆塚

寛政8年(1796)竹岡先生書学碑

文化6年(1809)タイ筆塚

 

古社であるので徳川の各将軍も参拝をしている。天正18年徳川家康が江戸下向の際に参詣、5代将軍綱吉は元禄2年(1689)に参詣の折、当社を幕府の祈願所としている。八代将軍吉宗は享保10年(1725)に代官伊奈半左衛門に命じ社殿を改築している。

 

神社も名水とか八幡様とか時代に迎合したり色々大変のようです。社伝と大田区史、郷土史研究家の見解とはかなり違うものも多くあるようです。


参考文献 現地にも何度も行っていますが下記を参考にしています。


町場ガイド  西村敏康監修   月刊おとなりさん
大田区ウォーキングガイド  西村敏康 編著  月刊おとなりさん   
大田の史話 1   大田区史編纂委員会
大田の史話 2       〃
大田区史蹟散歩    新倉善之  学生社
馬込文士村ガイドブック   大田区立郷土博物館
大田区の史跡めぐり         〃
大田区海苔物語           〃
大田区の歴史        新倉善之   名著出版
京急グループ110年史     京浜急行電鉄
昭和の風景 蒲田・羽田界隈と京浜電車  石川利夫  国際書院
大森の春秋  2000年版  大森消防署地誌編集委員会
羽田糀谷の年表    伊東奨学会
大森沢田  昔   蒲田4地区地名保存委員会
池上線 目蒲線   北川俊一   個人の出版
警視庁カメラマン石川光陽写真集

大森停車場階段鉄柱→鷲神社→萬霊地蔵→京浜電車敷石→蜜厳院(お七地蔵)→磐井神社(井戸、イチョウ等)→三原通り→馬頭観音→三原不動尊→海難供養塔→西南・日清の役碑→羽田道→厳正寺→貴船神社→ふるさとの浜辺

このコースで2時間位になります。チョット無理をすればふるさとの浜辺を外し森が崎方面へもいけるかも。もう1つもふるさとの浜辺へ行かないでそのまま東海道を(京浜第一国道)大森町方面へ行き梅屋敷方面へ。幾つかのコースができそうです。

1つのコースは大体3時間くらいを目安に無理な距離でなくゆったり歩ける事を念頭に想定しなければと思っています。まだ、2回しかこのコースは歩いていません。もう少し歩くとまた何か見つかったりコース変更が出たりします。これから少し歩いてみます。何か発見があればと期待します。

区の史跡めぐりコースではもう少し短いコースで見学も少なくなって居たりします。現実に多くのコースを設定して参加者を募集しているのは「月刊おとなりさん」の西村さんです。もう大分前から大田塾、品川塾として史跡案内散策をしています。

月間おとなりさん大田塾
http://www.otonarisan.com/contents/juku.html
今日は池上の本門寺を中心とした朗師講スタンプラリーを会社の元上司(喜寿)としました。本門寺2世日朗聖人への奉仕に対する徳を偲び、その恩にむくいるための講会と云う意味で今でも月に一回24ヶ寺の住職が集まって報恩法要を行っているようです。

私はそんな難しいことは分かりませんがこの池上の寺巡り、24ヶ寺を歩いて回りその寺、町の歴史と伝統に触れる小さな旅です。

日蓮聖人が亡くなった御入滅の霊場である池上本門寺にはその周辺に参拝者が宿泊する宿坊があった。宿坊のはじまりは日蓮聖人の弟子たちが日蓮聖人の塔所に給仕するために建てられた小庵であった。

当初は支院と呼ばれ多いときは36あったようです。現在は本門寺を含め24ヶ寺あり「朗師講」と呼ばれているようです。今日は簡単に言えばその24の寺のスランプラリーです。

スタンプ帳では朝10時から午後3時位で廻れますとあります。上司の足を考えればまぁ2時間が精いっぱいかと思い午後一時に待ち合わせて回り始めました。

本人は朝は昔はジョギング、今は早足で散歩をしていると聞いていました。それでは少しくらい、下手すれば私より健脚かと思っていました。

待ち合わせ場所からすぐ一か所目、此処はまぁすぐ行けましたが古いお寺さんですから昔の別当として神社が隣にあります。此処は家康が江戸へ一緒に連れてきた木原氏で御家人としてこの一帯を治めていましたが元は今で言う大工で家康死後の日光東照宮の余った材料で作った神社ですとちょっと長い階段を上ったらもう息切れしてしまいました。

もうそこからは結局4ヶ所で終わってしまいました。やはり時間にして1時間位、即お茶と相成りました。

さて残ったお寺はこれから時間をかけて回ってくださいとお願いして個人的に私も廻ろうと思っています。帰ろうとしたら大森の私の最長老の友人?(傘寿)のガレさんからテルあり大森稲穂にていつもの美味しいお魚、お酒を楽しみました。

朗師講スタンプラリーは次回から。

朗師講スタンプラリー
http://honmonji.jp/05topic/06info/meguri/meguri02.html
この所大田区立郷土博物館へ良くお邪魔します。そこで知ったのですが年に一度史跡めぐりを開催しているようです。気がついたときは区報で告知し大分前に締め切ったとのことですが参加予定人員の枠にまだ足りていないとのことで参加がオッケイになりました。友人塚ちゃんと参加をしました。

博物館が開催するので資料、学芸員、博物館の人がついて普段公開していないお寺の秘仏だったり宝物だったりを見せていただけました。そして大田ケーブルTVも最後まで取材をしています。

コースはこの所何度か歩いている馬込の代表的なコースです。①長遠寺に集合し本堂にて十一面観音菩薩立像(非公開・鎌作り観音・平安時代作)、この十一面観音はもしかすると十一面千手形式で合ったかも知れないそうです。本堂のご本尊の裏手に安置されています。中に入っても絶対見えない。鰐口(非公開・粉河丹後守作・元禄6年)境内に多くあります観音霊場供養塔、庚申供養塔・念仏供養塔など。今回のコース内ではこの庚申塚の色々な形を見学する。長遠寺は偶然塚ちゃんの家の菩提寺、私は叔父の菩提寺。②馬込八幡神社、③河原家住宅、④神明社、

⑤万福寺(梶原景時、木原氏供養塔など境内内と本堂で住職から説明があり非公開の阿弥陀如来及び両脇侍立像、善光寺式阿弥陀三尊、13世紀中期の鋳造、数的に三尊仏が揃ったのは154体もあり珍しくないが大きさが6番目との事美術様式が素晴らしいとの事、馬具(布袋蒔絵装飾の鞍、鉄製黒漆塗りの鐙、轡など非公開)、板碑群(非公開・主に阿弥陀種字を主尊とする約50基、日待供養塔など)

住職の話では梶原景時の庇護について否定、馬具も景時のものを否定するなど、また日蓮は横浜瀬谷から洗足池、池上のコースを否定しこの万福寺へ泊まってから池上へといった話をされた。ここでは日蓮が世話になったのでこの馬込では日蓮宗のお寺は作らないといったと言う話も否定していた。此処は母の実家の菩提寺。

⑥富士講燈篭⑦北野神社(登山の前に富士講の人が参篭、多くの庚申供養塔)、⑧平張稲荷神社、⑨不動堂(念仏供養塔など)⑩磨墨塚(頼朝からのこの地の名馬、宇治川の合戦で活躍、鐙を落とした鐙坂、落ちて死んだ駒落ちの谷)⑪熊野神社(庚申供養塔)、⑫円乗寺(殉難五君の碑、⑬出世稲荷神社(鎌倉街道碑、内川石橋)以上のコースです。

結構見るものも多く楽しいツアーでした。この所歩いているコースでも普段見られないものをみせていただいたり専門家の説明があり本だけの理解よりとても役に立ちました。

16時半に解散、我々は馬込から行きと同じようにJR大森駅まで歩き駅前でビールで反省会をして本当に解散しました。最初のビールは旨かった。このような企画、年に1度と言わず是非開催して欲しい。

長遠寺
http://d-cgi.nakayamasekiryo.co.jp/cgi-bin/kanto/temple/00022.html   
万福寺
http://www.asahi-net.or.jp/~uu2n-mnt/kyuseki/manpukuji.html
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