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コース概略はJR両国駅→本所松坂町公園吉良邸跡→回向院→両国橋→仙台藩蔵屋敷跡→ちくま味噌(休息の場)→永代橋→浅野内匠頭邸跡→田村右京太夫屋敷跡→泉岳寺→細川家下屋敷跡

0dee9732.jpg476cea78.jpgちくま味噌の赤穂浪士の休息の碑から右にあります永代橋を渡ります。この時間はもうきっと渡れる時間だったんでしょうか。渡って直ぐ左側の鍛冶橋通りを歩き今の八丁堀駅を目指します。

駅にぶっかって新大橋通りを南下し左に佃大橋の標識が出ます。大橋に少し向かうと右側に聖路加病院がその先には有名な大きな聖路加ガーデンが見えてきます。病院の間に聖路加看護大学がありその脇に浅野内匠頭邸跡の碑があります。私は此処で病院の方へ行き過ぎ結局この付近を1周してしまいました。

この地域は明石町といいます。隅田川沿いは播州明石の風景に似ていたそうで地名が誕生したそうです。赤穂浪士はこの世の見納めと浅野家上屋敷方面に迂回をしたのでしょう。当時はお家没収でしたからこの屋敷には他の大名のものになっていました。

581cc54a.jpg3dc132f9.jpga52461bd.jpgこの碑を西に行けば築地に出ます。日刊スポーツ社などの看板も出てきます。築地駅の先が築地本願寺です。京都の浄土真宗西本願寺の東京別院で明暦の大火でこの埋立地の方へ横山町から移転していました。

72299294.jpgこの本願寺は入って左側に間新六の供養碑があります。遺体を引き取った家族が埋葬したとか泉岳寺に向かう時自身が供養依頼文を書いて槍にきんすを付けて投げ入れたとか言われています。

本願寺は古代インド風の建物で遠目からは日本のお寺には見えませんし中もステンドグラスが入っていたり本殿参拝も仏像画だけで何となく異教のような気がします。此処はエックスジャパンの「ヒデ」フアンの聖地でもあり前は本堂左前方にありましたが今は左側後方にHiDEノートなどがあります。

d6701b5d.jpg築地から銀座方面を目指します。築地の場外市場も多くの人で溢れています。美味しい寿司や刺身を求めているんでしょうか。今日の昼食は寂しかったが次へ行かなくては。

次は新橋4丁目の浅野内匠頭の切腹した田村右京太夫屋敷跡です。銀座は大変な混雑で其れでなくても細い歩道が溢れ前に中々いけません。多くの人がブランドビルからデパートから買い物袋を持って出てきます。景気が良くないと言いながら此処は少し違うようです。

途中横にそれ新橋駅を目指します。しかし、新橋4丁目と言う住所は西側汽車ぽっぽが置いてある方ですが4丁目は芝方面で結局1丁目から4丁目まで南下しました。目的の切腹の地は現在工事中で看板はありません。

1331cc29.jpgb83cfad7.jpg                   この由来で和菓子屋新正堂が有名な切腹最中、義士羊羹、仮名手本忠臣蔵味こよみなどを販売しています。切腹最中は皮から餡が溢れるくらい飛び出し最中が切腹しているように作られています。義士羊羹は国芳の浮世絵の各義士の絵がパッケージされています。今日はお店の人も討ち入りスタイルです。

後は亡き殿の墓前報告をした泉岳寺になりました。第一京浜国道、昔の東海道を南下すれば直ぐです。此処で気が緩みました。もう直ぐだと。気が付けば此処からまだ浜松町、田町と泉岳寺とあります。

足がじんじんして足裏には豆が出来かけていました。スニーカーを代えたのがいけないのかと悔やみながら速度は急に落ちました。新橋を3時に出ました。もう此処まで5時間歩いています。もう直線距離ですが着物のご婦人にも抜かれます。

40分掛けて何とか泉岳寺に着きました。何十年振りかの泉岳寺です。山門を入ると大勢の人が参拝しています。右には昔なかった大石内蔵助像、義士の菩提所は石囲いが新しくなっています。

6e7836dd.jpg4228cbb4.jpg4c9158db.jpg






8e028be1.jpg61600086.jpgcc0a656e.jpgお線香を購入して全員のお墓に参拝しました。此処のお線香はもの凄く本数が多く全員に配れます。墓は手前が婦人の墓、その前が殿様、横の一角に大石内蔵助の墓が別角であり、各お預けの屋敷毎にお墓が建っています。その他義士の遺物等を展示している宝物館、首を洗った井戸などがあります。話が違いますが脇には横浜を作ったといわれる易聖・高島嘉右衛門の墓などもあります。

さぁこれでゴールと思いきや泉岳寺の裏の旧細川家下屋敷跡が近くにあると看板が出ています。此処で内蔵助などが切腹をしたところだそうです。今は高松宮家の屋敷の一部だそうです。非常に細い裏道、人が一人通れる生活道を登り前の人について行きました。前の人たちがいなければ分からなかった道順です。

27017e8d.jpg門が今日は特別に開けられていました。入り口に碑があるだけで中は何もなく落ち葉だらけの小さいスペースでした。ここが忠烈の跡というそうです。

これで全て終わりゴールとなりました。昼食も隅田川テラスで簡単におにぎりで済ませ10時から4時過ぎまで歩きました。家から出発到着で約8時間の日帰りの旅となりました。足に豆を作り面の皮は厚くなっていますが足裏は軟になっていました。

赤穂浪士は命がけの戦いをして重い武具を着け上杉の追っ手を気にしながら傷付いた身体で此処まで歩いて1度の甘酒休息で来たのに比べれば大したことではないでしょうが四国1週間城廻より疲れました。

途中咽喉も渇き1杯飲んで帰ろうと思うも早く帰って風呂へ入ろうという気持ちのほうが強かったです。







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