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美術館・鉄道・お城・お相撲・お友達の話など趣味のブログです。
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昨日、今日と知人で議員のご尊父の葬儀のお手伝いで目黒の大黒天といわれ目黒駅から行人坂の途中の大円寺に。お手伝いといっても多くの方がいますから大したことをした訳ではありませんが議員という仕事柄多くの弔問客はお見えになりました。

大円寺は初めて入ったお寺さんですが旧国宝などもあり小さい境内に多くのお地蔵さんがあります。天台宗のお寺さんで入るとすぐ左側に釈迦三尊像、五百羅漢などの石仏が崖に沿って並ぶ石仏群が目に入ります。

このお寺は江戸の三大火事(振袖火事、車町火事、行人坂)のひとつの行人坂火事の火元と言われています。火事は目黒から湯島、浅草まで焼き尽くす大火になり江戸城の櫓まで焼いたそうです。

91c0e70d.jpg円寺は以後76年間再建を許されなかったそうで、500を超える石仏はこの大火の犠牲者の供養のために石工が50年と言う歳月をかけて完成したといわれています。その横にはまた小さな石仏が水子供養と言う事で鎮座しています。

 
この石仏群の横に顔、手が溶けたお地蔵さんが立っています。この地蔵さんは「とろり地蔵」と呼ばれ江戸時代に漁師が海から引き上げたそうで、悩み事をとろけさせてくれるお地蔵様だそうです。

現在大田区を歩いていますが大森の密厳院にある八百屋お七と関連するお七の恋焦がれた相手吉三ゆかりのお寺さんでもあります。吉三はその後出家して西運と名乗り大円寺の下の明王院に身をよせ、お七の菩提を弔うためと念仏堂を建てるために毎日目黒不動と浅草観音まで1万日日参の悲願を立て、毎日鉦を叩き念仏を唱えながら往復10里を通ったそうです。27年間毎日通いお七の成仏のお告げがあり明王院境内に念仏堂を建てたそうです。

また西運は雨の日はぬかるむこの急な行人坂を石畳の坂に太鼓橋も石で多くの浄財により建立しました。明治初めに明王院は廃寺になり仏像などがここの大円寺に移されたようです。

その他にも七福神、3体の庚申塚、本堂には旧国宝で国の重要文化財の清涼寺式の釈迦如来立像,境内には多くのお地蔵様があります。
95d1d6ac.jpg
とろけ地蔵
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大森寺 大森南5-1-2

元々は大林寺のお寺で墓地は無い。

境内に明治32年に発見された森が崎鉱泉の源泉の碑があります。また鯉の句碑、鉱泉由来の碑などがあります。

 

明治維新当時、官軍に敗れた烈士彰義隊の一部が船橋から船で逃れたが暴風に遭って難破しその死骸が森が崎に漂着した。土地の者が発見し葬り塚を築いた。その無縁堂が今の大森寺だそうです。

根拠のない話ですがこの無縁塚に埋葬された武士の若衆が夢枕に立ち霊泉の湧く事を暗示し掘ったら鉱泉が出たという話もある。

 

法浄院 大森南5-1-18

大森寺の裏側にあり森ヶ崎観音と呼ばれています。三縁山 法浄院は無宗派のお寺で別院として浦賀日月院、伊東日徳庵、木曽御嶽山観音堂などがあるようです。ここは墓地分譲中。

 

狭い敷地に本堂、浄心堂、観音堂、地蔵堂などがあります。


航空機事故慰霊地蔵尊(水かけ地蔵、森が崎観音)

昭和13年8月24日、森が崎で航空機の墜落事故があり85名が亡くなった。日本航空輸送のフォッカー機と日本飛行機学校のアンリオ機が空中衝突。両機の乗務員は数名だったそうですが救出しようと駆けつけた工場の50名と近隣の住民数十名が機体に近づいた瞬間ガソリンタンクが爆発、付近一帯が火の海となり多くの焼死体が続出した。死者85名、負傷者76名に及んだようです。

 

多くの人が水がほしいと叫びつつ亡くなったそうでその方々の慰霊を供養するため水かけ地蔵が祀られた。

 

元々住職がいませんでしたが開祖になる空光和尚の枕もとに慰霊の諸霊が現れて自分たちを供養する人々には「いかなる事故災厄をも除くであろう」とのお告げがありここの住職になったそうです。

 

地蔵堂には安楽、開運、身代わり、子育て、延命、先入りの各地蔵さまが安置され、中には多くの千躰地蔵がおり、腕輪念珠をかけて供養してくださいとの書きつけがあり地蔵さんの腕には念珠がかけられています。

その他に小さなお願い地蔵、身代地蔵があり願い事を御地蔵さまの御衣に書いて背中に自分の名前を書いて地蔵堂へ納める。という絵馬の代りなんでしょうか沢山奉納されています。

 

法浄院
http://koia.web.fc2.com/houjyoin.html

湯の町森が崎(森ヶ崎)

明治中期から戦前まで森が崎周辺は湯の町として大小の旅館や料亭などが立ち並び繁栄をした歓楽街だった。今は東京労災病院、東京都の浄水場などでその面影は全くない。

 

大田の史話2によると明治27年地元の田中新造がこの地を開発し灌漑用井戸を掘ったところ偶然鉱泉を発見、森が崎宣伝案内には、含鉄アルカリ性食塩泉でラジウムヘマナチオンの放射性成分もあり増富鉱泉に次ぎ効能あらたかで諸病に効くという。また「湾頭を渡りくる潮風はあたかも吸入器を常用するに等しく散歩一巡すれば神気頓に爽快」と現在の温泉保養地の効能を掲げています。

 

交通は京浜電車で大森山谷、梅屋敷で下車、十五丁徒歩か人力車で50銭だそうです。

 

明治37年には旅館兼割烹店は23館、養生、盛平、平盛、富士川、大金など、現在は森が崎バス停前で場所は違いますが盛平はそば屋に大金はガソリンスタンドになっています。盛平蕎麦屋には店内に昔の旅館時代の写真が飾ってあります。

 

当時は旅館以外に温泉病院もあり今で言うスーパー的なものもあり長期保養も出来、春は貝を拾い、夏は潮浴、秋は魚を釣り、冬は籠りて雪を賞すると。そして競馬場もドイツの温泉保養地バーデン・バーデンみたいなもので東京から近く多くの文人墨客も訪れています。

 

人が多く集まれば当然宴会となり芸者置き屋も整い一大歓楽街になっていく。田圃は掘り返されその地には大きな釣り堀ができ、競馬場もできひなびた地は大人の一大レジャーランド化となっていきました。

 

しかし第二次大戦時は旅館は軍事工場の寮となり衰退していきました。ここで面白いのは昔の宿帳が残っています。

大正12年12月27日から29日

顔丸目口並色青白、中肉中背、頭五分刈り、キモノ銘仙ハオリ

平民 著述業 堺利彦 52歳

社会主義運動の先覚者で合流者は日本共産党の徳田球一

 

府下大森馬込村 顔細面目口並、中肉中背、色浅黒、髪オールバック、洋服、著述業 藤浦洸 三十一歳

顔丸目口並 中肉、背五尺五寸位、色浅黒、頭ハイカラ、洋服平民 大森区馬込町 著述業 尾崎士郎、三十六歳


尾崎士郎は昭和8年5月9日午後四時から10月6日午後七時までの長期滞在している。ここで人生劇場(青春篇)の後半部を書いたと言われている。

 

共産党員から馬込文士村の多くの人々と色々な人が訪れてします。それにしても宿帳の書き方は法律で決まっていたんでしょうが旅館経験者としては興味深い

 

温泉の碑は現在盛平そば本店の近くの大森寺にある。
9b1d2b39.jpg

 




真ん中が鉱泉の碑


今日も30度は行かないという事ですが湿度が高いということで節電を兼ね午前中から家を脱出。川崎で大鹿村騒動記を見てサンマーメンの昼食後ホテルニューオータニの美術館へ行きました。

川崎の映画の後は川崎の違うお店でサンマーメンを食べてます。でも今だ良く解らず。川崎はサンマーメン、蒲田は餃子が有名。

7月中旬から8月28日まで大谷コレクションの相撲錦絵の世界を開館20周年記念として大判三枚綴りを中心に60点展示しています。場所柄と時間的にお客様は少なくゆっくりと見ることができました。

今回は浮世絵版画ですが此処は肉質画が多く所蔵されているので有名です。今回のタイトルとしては1、取り組み、2、横綱土俵入り、3、相撲部屋、4、力士勢揃い、5、見立て、6、お抱え力士、という構成です。

相撲錦絵は相撲博物館で少しづつ展示されていますがこれだけ多くの浮世絵を見たのは初めてです。浮世絵は当然何枚もありその時期により色が違ったり場合によっては人が消えたり背景が違ったりします。同じ絵を何回か見ているものもありますがその瞬間は全く思い出せません。

今回の力士では谷風や小野川は何枚もありますが目だったのは秀ノ山(秀の山)の枚数が多かった。興味があったのが「大日本大相撲勇力関取鏡」落合芳幾の作、ぱっと見は相撲の絵番付かと思うような図です。内容は神話の時代から相撲の歴史を彩った力士達を一同に描いています。

右上には日本書紀に登場する相撲の始祖野見宿称之命と当麻蹴速之命がにらみ合ったり源頼朝の御前で相撲した河津三郎、候野五郎?がまだ戦っていたり初代の横綱とされる明石から境川までの江戸時代の活躍した力士達の図です。

もう一枚は相撲部屋の図で「東共同稽古場之図」です。相撲部屋を上から俯瞰した図になっています。土俵では西ノ海を中心として稽古をしていて、中央上段では小結一ノ矢が若い衆に汗を流させていてその下には高砂親方が床を背に式守伊之助たちと話をしています。また、左下には阿武松がキセル片手に火鉢に当たっています。西ノ海、小錦、大達?、一ノ矢など高砂部屋の人達です。何代目か解りませんが高砂浦五郎、高砂浦右衛門(こういう名前の人もいた。)は姫路藩のお抱えだったんですね。

大変勉強になりました。時間が出来れば再度行く予定です。
次回の9月3日からは葛飾北斎の富嶽36景とリヴィエールのエッフェル塔36景だそうです。富嶽三十六景全46点が展示されるそうです。同じ9月から平木浮世絵美術館では東海道五十三次(保永堂判)が展示されます。

ニューオータニ美術館
http://www.newotani.co.jp/group/museum/index.html


京急大森町付近の東海道を歩いていると山谷とか谷戸といった聞きなれない地名が出てきます。山谷は台東区の日雇い労働者の寄せ場「ドヤ街」が有名です。

 

台東区の山谷は諸説がありますが江戸時代にこの辺に3軒しか家がなく三家、三屋と呼ばれいつしか山谷になったと言われています。また此処は奥州街道、日光街道に沿った地域で江戸時代から木賃宿が集まる地域だったようです。

 

大森山谷は諏訪神社の由来では「山野」と称した原っぱで今の美原通り(北原、中原、南原)の三原に続く「三野」で東海道の発達とともに三原が美原に改称したのと同様に人が住みだすと山野が山谷になったと考えられるそうです。谷(たに)でなく人が集まる「や」になったようです。ここは今でもバス停に本宿という名称が残っています。品川、六郷の宿の間中の宿だったということでしょう。

 

東山谷(大森東二丁目)南山谷(大森西三丁目)北山谷(大森西二丁目)と三地区で構成されていたそうです。現在は住所表示もなく大森消防署山谷出張所、区立山谷公園だけのようです。京急も大森町駅と梅屋敷駅の間に大森山谷駅があった。


谷戸

鎌倉時代に幕府の家人が住んでいた事に起源があり家人を「やと」と称しその後谷戸の文字が当てはまれたようです。余りしっかりした文献がありません。現在は谷戸の交番、谷戸三輪神社などがあります。

 

本来の谷戸は丘陵地が浸食された谷を言うはずですがここには丘はありませんし谷でもありません。

 

山谷ドヤ街、貧乏谷戸と言葉の感じでは、あまり上品な感じではありませんからこの名前が風化していったんでしょうか。

 

48f21d59.jpg東海道一本灯篭台石(大森西5-2大森三輪公園内)

元は旧東海道梅屋敷寄りの道端にあり江戸後期東海道の通行人の目印として富士講の人々が寄進した常夜灯。

 

大正大震災で崩落し三輪神社に移築されたが昭和61年に境内改築のため大田区へ寄付された。大田区は火袋、竿石など欠落したものを復元し三輪公園に移築しています。(画面で白い部分が復元されたところ)

 

元々は富士講の人の寄進で富士山にサル3匹がかかれているのは庚申の年に富士山が出来た事によるものらしい。台石には多くの富士講の人の名が刻まれています。本来有ったところにあれば良いのでしょうが通行の邪魔になり本来と違う場所に設置されています。

 

 

今日から8月です。この所あの暑さがなく涼しい毎日でエェェ8月という感じです。6月後半から7月中旬までは8月になったらこの暑さの何倍になり節電でどうなるんだろうと思っていましたが。

 

我が家の多くのカレンダーは花火の絵になりました。私の「今月の絵」も花火にしたかったんですが残念ながら花火が描かれた浮世絵は持っていません。

 

花火は東京では東京都の隅田川花火大会、日刊スポーツの神宮外苑花火大会、中央区の晴海で行う東京湾華火大祭が有名です。その他に多くの区が主催の花火大会があります。

 

隅田川の花火大会は享保の飢饉、コレラで亡くなった人の供養からのもの、これから盆供養の花火大会が時期的に多いのではないでしょうか。私が以前いた伊豆長岡では狩野川台風の慰霊の花火大会です。

 

今年隅田川は中止の方向でしたが都知事の一声でそれこそ慰霊の花火大会として1ヶ月遅れますが8月27日に行うようです。根本は盆供養ですからやるのが良いと私は思っています。

酒飲んで浮かれていますが心は合掌しています。決してカラオケ合唱ではありません。何だか株価も上がったり下がったりもっと花火みたいにドォーンと上がって。無理か。

隅田川花火大会
http://sumidagawa-hanabi.com/index.html


京急梅屋敷下車ー①大林寺(大森中2-7-19)ー②密乗院(大森中2-17-5)ー③三輪神社(大森中3-17-15)ー④梅屋敷公園(蒲田3-25-6)-⑤椿神社(蒲田2-20-11)-⑥円頓寺(蒲田2-19-15)-⑦薭田神社(蒲田3-2-10)-⑧栄林寺(蒲田3-1-16)-⑨妙安寺(蒲田4-18-15)⑩蒲田八幡神社(蒲田4-4-18)-京急蒲田駅ないしJR蒲田駅

大林寺 大森中
2-7-19

日蓮宗 長亨山 薬王院 池上本門寺の末寺

7世日了が天正年間(1573-1592)七面大天女を勧請、大森の七面様と呼ばれ戦前まで縁日で賑わった。建物は戦災にあい焼失。

 

12世日好は享保年間(1716-1736)村民の窮乏を解消する副業として「麦わら細工」を村民に教え東海道筋のお土産玩具として販売させ大森名物となる。当初は箱や小型の屏風などの表面に色を染色した麦わらを貼り付けたものからその後生き物玩具などを編んで作る物に変わっていく。

 

享保14年大森村甲子講が建てた池上道標がある。元は東海道筋にあったものが道路拡張により当寺に移されたようです。高さ1.62Mの池上までの道しるべとしては比較的大きいもののようです。

 

池上道と刻し側面には品川へいきぬけと書かれ池上本門寺を参詣して品川宿へそのまま行けることを示している。都内では旧東海道に残っている数少ない道標です。

 

非公開ですが三面大黒天画像がある。紙製着彩の絵。戦国武将武田道遥軒信綱の永禄7年(1564)の作。武田信玄の弟で天正10年織田信長に滅ぼされた。この地区には武田の没落後落人となったという伝承もある。

 

大林寺の梅屋敷駅をはさんで反対側に妙典寺という日蓮宗のお寺があるがそこはこの地域をおさめていた蒲田四郎入道道儀の墓碑や武田氏の武将の末孫という嶋田家、荘官といわれる杉原家のお墓がある。

 

大林寺は現在本堂、庫裡の屋根などを修復中。屋根は軽いチタンでの葺き替えだそうです。尚、此処の前住職新倉善之氏は大田区史編集主任専門委員で数多くの著作があります。大半の人がこの方の「大田の史話」、「大田区史跡散歩」、「大田区の歴史」などを参考にしています。大田区文化財保護審議会委員、大田区立郷土博物館運営委員など。大田区の歴史に関しての重鎮です。

 

商店街活性化の一環で本堂を貸し出し商店街主催の落語会、境内では植木市なども開催。お寺と地元との融合も図っています。昔の七面大天女ではないですが三面大黒天で決まった日の商店街も門前町として縁日?を開いてもらいたいものです。

 

 


東都名所 安藤広重画(幽斉書)

大判、横型、錦絵、極印 版元川口正蔵板、アダチ版画研究所復刻

タイトル 忍ヶ岡蓮  
小林忠氏の解説。

蓮の葉が水面を埋め尽くすほどに繁茂する夏の不忍池。その畔を共のつれた二人の婦女が歩いて行く。寛永寺参拝のついでに中島の弁財天社へでも立ち寄ろうとするのであろうか。空に流れる蛇が身をくねらすような赤い雲と鬱蒼と葉を茂らせた前景の喬樹とが、上空や池面を彩る藍色と共に、暑苦しくもけだるい夏の昼下がりの感じを良く描き伝えている。

喬樹と人物の近景、鳥居から弁天祠にまでのびる中景、そして火の見櫓も見える対岸下谷界隈の遠景と池面をはさんで遠近を三分した空間構成、北斎風に奇をてらうこともなく、自然で親しみやすい構図をつくっている。

15a2a457.jpg 

専門的な解説はそうでしょうが広重ブルーとオーバーでない遠近法を取り入れた画面で奥行きのある風景画になっています。

昼ですから蓮はしぼんでいますが解説の池一面の葉とはなっていない。また葉が一面では絵にならないかも。現実も池一面ではない。しかし、蓮は団子状態でつぼんでいます。もう少しで夕暮れになり涼しい風が湖面を渡ってくるように感じます。

京急梅屋敷下車ー①大林寺(大森中2-7-19)ー②密乗院(大森中2-17-5)ー③三輪神社(大森中3-17-15)ー④梅屋敷公園(蒲田3-25-6)-⑤椿神社(蒲田2-20-11)-⑥円頓寺(蒲田2-19-15)-⑦薭田神社(蒲田3-2-10)-⑧栄林寺(蒲田3-1-16)-⑨妙安寺(蒲田4-18-15)⑩蒲田八幡神社(蒲田4-4-18)-京急蒲田駅ないしJR蒲田駅

梅屋敷と麦わら細工
品川宿と六郷宿の間に梅屋敷と言われるお店がありました。当初は道中の常備薬としての「和中散」を販売したり茶店的なものでした。宝永年間(
17041710)数軒あった1軒山本久三郎は和中散の本舗が近江の国の梅木村であった関係で庭に梅の木を植え酒肴も楽しめる茶屋を開業しました。
パパリンの趣味の世界
広重 蒲田村 梅屋敷


旧和中散本舗(滋賀)http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=1706 

それがいつしか梅屋敷と呼ばれ大盛況に広さも3000坪に及んだそうです。12代将軍家慶が鷹狩りの折、14代家茂が上洛の際など休憩をしています。

 

幕末には高杉晋作、佐久間象山、三条実朝、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などが会合を開き、特に高杉晋作など攘夷派の志士たちも此処で横浜異人館焼打ち計画の密議があり山内容堂、毛利元嗣などが慰留をした「梅屋敷事件」などが有名です。

 

明治維新後は明治天皇始め大正天皇、皇族の方のご来遊もあり特に明治天皇は9度の行幸、梅の木のお手植えもされていました。そして此処は聖跡梅屋敷公園となっています。

 

大正7年京浜国道の拡幅工事により東側が大きくさかれ西側は京浜電車の開通により大きくさかれ今は当時の面影は全くありません。現在狭い庭内には復元ですが里程標(距 日本橋3里18丁 蒲田村山本屋)山本家の梅の句碑、狂歌堂真顔の歌碑などがあります。弓道場、土俵もあります。

 

東海道を往来した旅人、文人墨客に親しまれこの梅園は広重はじめ多くの絵師に描かれています。木戸孝允、伊藤博文が二人で此処で新年会をした際合作の一幅のの中にも書かれたそうです。

 

街道のお土産として大森名産として麦わら細工があります。茶店で東海道の手ごろな土産物として販売されていました。麦わら細工は、梅屋敷東口にあります大林寺の12世日好和尚が漁間の稼ぎ、村民の窮乏を救う一助として作らせたようです。

 

当初は小箱や小さな屏風の表面に色を付けた麦わらを切り張りしたものでした。後世には虎、熊、兎などの動物、でんでん太鼓、纏いなど色々な形に編んで行く高度な細工物になり大変な人気になったようです。

 

その他に梅を使った梅干し、梅びしおの販売、当時の江戸の梅干しの大半はこの地域のものだったようです。

梅びしおの作り方と料理応用

http://www.town.minabe.lg.jp/ume/umeryouri2.html 


麦わら細工は明治に入り雑色村の川田谷五郎と言う人が横浜で米国人のかぶっている麦わら帽子をこの麦わら細工の手法により「麦稈真田」(ばっかんさなだ)としてアメリカ人の帽子として輸出されるようになり生糸と並んで輸出品になり細工職人が帽子の方へ行き手仕事職人は居なくなってしまいました。

 

麦稈真田も大森から手間賃の安い地方に移っていき檜を薄く経木にした経木真田、麻真田と材料も変わっていき麦わら細工職人は一人もいなくなりました。結局大田区からは麦わら細工、麦稈真田もなくなりました。

写真:大森麦わら細工 
大田区郷土博物館より 

大田区の郷土玩具

矢守(矢口新田神社)

鉄砲狐(穴守稲荷神社)

お会式万灯、纏い(池上本門寺)

とんびたこ(六郷)

なくなった玩具

麦わら細工、河豚提灯、弓河豚(穴守稲荷神社)

現在東京都が事業主体となって道路と鉄道の立体交差事業が行われています。7路線8ヶ所での都市計画事業です。

 

道路整備の一環として鉄道を連続的に立体化して多くの踏切を一挙に除却する事業で踏切による交通渋滞の解消、鉄道による分断された市街地の一体化、高架下空間の活用など周辺の街づくりに寄与する効果もあるようです。

 

現在の工事区間は1、JR南武線 稲田堤~府中本町 4.3K、踏切15ヶ所 2、JR中央線 三鷹~立川 13.1K、踏切18ヶ所 3、京急本線・空港線 京急蒲田駅周辺 6.0K、踏切28ヶ所 4、京成押上線 押上~ハ広 1.5K、踏切8ヶ所 5、京成押上線 四ッ木~青砥 2.2K踏切11ヶ所 6、京王京王線・相模原線 調布周辺 3.7K、踏切18ヶ所 7、小田急小田原線 代々木上原~梅ヶ丘 2.2K、踏切9ヶ所 8、西武池袋線 練馬高野台~大泉学園 2.4K、踏切9ヶ所。
京成電鉄株式会社

京成電鉄 

その後の準備区間

       
1、京王京王線 笹塚~八幡山 2、京王京王線 八幡山~仙川3、西武新宿線 中井~野方 4、西武新宿線 東村山周辺 5、東武伊勢崎線 竹ノ塚周辺

 

開かずの踏切でイライラしたり無理に線路に入って事故になったり一時を争う救急車も立ち往生、500Mも並んで待つ車からの排気ガスなど全てが解決し慢性的な渋滞も解消し経済的損失も解消するなど効果は色々あります。

 

さて高架下の有効利用は放置自転車、公園、地域の収納場所などから良く解りませんが区民施設、商業施設ができたりとより便利な場所になるんでしょうか。分断された商店街も一体化されればなお便利で活性化が図れます。


都内の踏み切りはまだ1130ヶ所が存在しているそうです。全部をなくす事もないでしょうが朝のラッシュでの数分おきの上下線で全く開かない踏み切りはこの工事で大方はなくなるようです。近くの京急で言えば片線
1本が上がっただけで踏切りで待つ時間が本当に短くなった。早く高架完成を待ち望みます。

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