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昭和61年に廃止され現在は汐留シオサイトとして高層建物が林立されゆりかもめ、都営大江戸線開通により汐留駅の名前が復活しています。その跡地に2003年旧新橋停車場として復元されています。
1階は発掘調査当時の掘り起こしの一部がガラス床で見ることが出きます。2階はギャラリーで現在は「日本の観光黎明期 山へ海へ鉄道で」展が開催されています。鉄道も高速鉄道になり特急燕が東京神戸間の時間短縮などのビデオや夏の海水浴へのパンフやその当時の水着など。また外国人誘致のツーリストビューロー設置などが展示されています。11月20日まで入場無料。
鉄道歴史展示室
http://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/index.html
この建物裏にはテツの聖地として鉄道の起点「0マイル標」があります。もう1つテツの聖地はこの鉄道の頭として先頭にたって神戸まで開通させた井上勝の墓地がある品川東海寺大山墓地です。此処は三角地の高台で両サイドに新幹線、山手線、東海道線、京浜東北線が走っているのが見えるところです。鉄道の父の墓地としては最高のロケーションです。
この墓地には住職の沢庵和尚、品川ガラス官営工場の碑、それを民間で引き継いだ西村勝三や賀茂真淵などのお墓もあります。
10月14日は鉄道の日ですがその前後の土日に鉄道の事業者のお祭りがあります。一番大きいお祭りは10月8日~9日までの第18回鉄道フェスティバルです。今まではJR全社、私鉄は北が津軽鉄道、南が西鉄まで参加しています。また鉄道に付帯する建設、電機メーカー、書籍、弁当など参加しています。子供用にもミニ機関車が乗れます。
その前の10月1日~2日は関東近隣の鉄道事業者のお祭りとして横浜トレインフェスタ2011も横浜東口ポルタ、そごう前で開催します。私鉄33社が出展しています。両日出展は京急、東急、相鉄、新京成、ひたちなか海浜、江ノ電などです。
この時期になると鉄道会社のニュースに目が離せなくなります。この所行ってもあまり全線切符もなく購入は少なくせんべいを買ったりする程度などですが、でも何となく待ちどおしいです。
横浜トレインフェスティバル参加事業者
http://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/tetudou/train_festa/train_fes_buppan.pdf
今回自分のお土産の鉄道グッズです。上が近江鉄道の鉄道型警報ブザーです。隣が近江鉄道の新設駅のスクリーン駅キーホルダー。近江鉄道は米原からJrの彦根、近江八幡、貴生川を接続する1896年創立の歴史の古い鉄道会社で西武グループの事業会社です。
今はガチャコン電車と言われていますが昔は近鉄でした。近鉄と言えば近畿日本鉄道ですが近鉄は1944年創立ですので前は近鉄が近日と略称をしていました。西武グループですから西武鉄道の中古の車両を改造して使用しています。走行中ガチャンガチャンとなるためガチャンコ電車の愛称が、そして近江鉄道も居直ったかガチャンコと自称しています。
彦根駅に鉄道資料館を持っています。また、数少ないサイクルトレインで自転車を無料でそのまま車内に持ち込むことが出来ます。スクリーン駅ホルダーは近江鉄道では何十年ぶりかの新駅、彦根駅ホルダーと悩みましたが。IT関連の大日本スクリーン製造の敷地内駅だそうです。グループだからしょうがないですがブザーも遠目からは西武鉄道に見えます。
左下は一畑電車です。1912年一畑軽便鉄道を前身とする島根県東部の鉄道事業者。略称バタデン。昨年、中井貴一主演の「レールウエーズ49歳で電車の運転手になった男の物語」で一般にも有名になっています。一畑薬師、出雲大社への接続の為の路線ですが当初は国鉄と並行するため出雲大社への許可が出ず、1964年出雲市駅への接続をあきらめ隣に電鉄出雲市駅を設け、現在は北松江線(松江しんじ湖温泉~電鉄出雲市)大社線(川跡~出雲大社前)の2路線で運行。
京王電鉄、南海電鉄からの中古車両を改造して使用しています。運転手教習も映画のように京王電鉄で行なっているようです。ここには最古級のデハニ50形があり出雲大社前に展示されています。
デ(電車)ハ(三等車、普通車)ニ(荷物室)のデハニ50形は平成21年に引退しています。木造ボディ、木製日除け、手動扉、荷物室付車両です。この車両の有効利用を検討していますが現在の運行する為の安全装置など基準を満たす為には資金的なものもあり現行は難しいようです。最古級の同じ時代の車両は高松琴平電鉄1000形、上毛電鉄デハ100形)
ここも自転車を持ち込むことが出来ます。1回300円です。出雲大社参拝の若い女性達は一瞬目を丸くしていました。地方線では結構レールサイクルサービスがあります。
元京王の5000形電車
右下はJR境線鬼太郎列車、テレビで有名になったげげの女房、水木しげる氏のげげげの鬼太郎のペインティング列車で米子駅0番線(霊番線)から出ています。ホームにも妖怪が沢山います。乗る前から子供達はワクワクで終点に水木ロードも出来、多くの観光客を運んでいます。
この他にねずみ男列車、猫女、鬼太郎、目玉オヤジなどのペインテイング列車があります。
岡山電気軌道、通称岡電、創立100年を超える古い会社です。路線は短く、岡山駅で探しても分からず、地下から行って乗りました。両備グループの会社ですが圧倒的にバスに押されています。このチンチン電車に乗りたく岡山城へはこのチンチン電車にわざわざ乗りました。日本に現在20の路面電車があるようですがまだまだ全部は乗っていません。時間的にNゲージを求める事は出来ませんでした。
この他に大垣で養老鉄道100周年記念切符、一畑大社前駅の入場券を購入。帰って気がついたのですが一畑の切符は自分ではかなり持っているつもりが全くなくきちんと買えばよかったと反省。
駄菓子屋と店内の都電ゼンマイ式(日本テレビ・火曜サプライズより)
都電は幾つか持っていますがブリキのゼンマイ式は持っていません。子供ではないですが欲しくなりました。今日は明日の冷蔵庫の持ってきてくれる時間の電話が有るとの事。かみさんに午後まで家にいることを確認してのこのこあらかわ遊園地前まで行きました。
買いました。ゼンマイ式2台、旧6000形のペーパーストンも、そして幾つかの駄菓子も購入。本当に子供になって「チンチン」と鳴らしながらの都電に久々に乗りご満悦で飛鳥山のモノレールに乗り、渋沢資料館に寄りお昼には帰宅しました。
久々に乗った都電、開業今年で100年、車庫には多くの撮り鉄がいました。
現在東京都が事業主体となって道路と鉄道の立体交差事業が行われています。7路線8ヶ所での都市計画事業です。
道路整備の一環として鉄道を連続的に立体化して多くの踏切を一挙に除却する事業で踏切による交通渋滞の解消、鉄道による分断された市街地の一体化、高架下空間の活用など周辺の街づくりに寄与する効果もあるようです。
現在の工事区間は1、JR南武線 稲田堤~府中本町 4.3K、踏切15ヶ所 2、JR中央線 三鷹~立川 13.1K、踏切18ヶ所 3、京急本線・空港線 京急蒲田駅周辺 6.0K、踏切28ヶ所 4、京成押上線 押上~ハ広 1.5K、踏切8ヶ所 5、京成押上線 四ッ木~青砥 2.2K踏切11ヶ所 6、京王京王線・相模原線 調布周辺 3.7K、踏切18ヶ所 7、小田急小田原線 代々木上原~梅ヶ丘 2.2K、踏切9ヶ所 8、西武池袋線 練馬高野台~大泉学園 2.4K、踏切9ヶ所。
その後の準備区間
1、京王京王線 笹塚~八幡山 2、京王京王線 八幡山~仙川3、西武新宿線 中井~野方 4、西武新宿線 東村山周辺 5、東武伊勢崎線 竹ノ塚周辺
開かずの踏切でイライラしたり無理に線路に入って事故になったり一時を争う救急車も立ち往生、500Mも並んで待つ車からの排気ガスなど全てが解決し慢性的な渋滞も解消し経済的損失も解消するなど効果は色々あります。
さて高架下の有効利用は放置自転車、公園、地域の収納場所などから良く解りませんが区民施設、商業施設ができたりとより便利な場所になるんでしょうか。分断された商店街も一体化されればなお便利で活性化が図れます。
都内の踏み切りはまだ1130ヶ所が存在しているそうです。全部をなくす事もないでしょうが朝のラッシュでの数分おきの上下線で全く開かない踏み切りはこの工事で大方はなくなるようです。近くの京急で言えば片線1本が上がっただけで踏切りで待つ時間が本当に短くなった。早く高架完成を待ち望みます。
ローカル線の宿命なのか折角雲仙普賢岳噴火による壊滅的な被害を県や地元の強い要望で復興しましたが10年で廃線になってしまいました。当初は廃線という考えもあったのを地元民の強い要望という御旗で無理をした結果です。赤字の大半がこの路線と言う事で島原外港ー加津佐は廃線になっています。
マスコミみたいに言うのは簡単ですがそれを維持運営するのは大変な努力が必要です。生活路線でもあり公共事業ということで諸々の経費削減をして無理した運営をします。これは安全安心という公共事業の中でその無理している部分(設備、人、教育等)がもし事故でも起こせば何だと叩かれてしまう事もあります。現実の事業は目に見えないところにお金が掛かります。
現実に島原城を案内してくれたガイドさんは島原鉄道は非常に高い、だから乗らないと平気で言っていました。でもこの鉄道がなければお年寄り、学生の足がなくなってしまいます。いつも弱者が被害を蒙ります。皆で乗れば鉄道はなくなりませんよ。と言ってもきょとんとしています。
廃線は反対、でも高いから乗らない。じゃぁ誰が赤字を負担するんだ。まして島原鉄道は私鉄です。(噴火の為の復興による費用の負担で県が10%資本参加していますが)元気な人達は車があるから、直ぐでない(30,40分に1本)、時間が掛かる、運賃が高いと理由をいいます。でも明日はわが身です。ワンマン走行、無人駅などそして無料の急行を出しています。
現実にこの地区では一般バス路線は県バスも撤退し島鉄バスしか走っていません。JRは民間ですから新幹線が通れば途中の赤字線は廃止しても良いルールです。新幹線が走っていてJRが並行運営しているローカル線は黒字線か少しの赤字線です。商売にならないところは廃止しています。それが資本主義の運営です。そのうちもっと北海道などは廃線が出ます。
赤字でも住民の為と運営している3セクも余裕のある自治体はできますが税収の少ない自治体は結局廃止になります。自然災害があれば丁度良い理由になります。
同じように地元の商店を利用しないで大型スーパーが出来ればそこが便利で利用します。そして地元商店は廃業していきます。大きな街でもシャッター通りになっています。そしてスーパーも売り上げが悪ければ即撤退します。お買い物にバスに乗って大きな街に行かなければならなくなるのです。
こんな風景が全国で見られます。いつも弱者が腰をまげまげ買い物難民をしています。それが地方の現実です。
何か島原鉄道の素晴らしい景色の話や元専務の宮崎さんの話や途中下車の海苔の乾燥場、鍋島藩の屋敷、諫早城址の散歩コース、うなぎ屋さんの話を書こうと思ったのですがトンでもない方向へ行ってしまいました。テツとしては廃線さよなら列車にニコニコしながら乗りたくはない。鉄道は走ってなんぼです。
ご存知のように三陸鉄道は旧国鉄路線を引き継ぎ1984年開業した第3セクターです。北リアス線(宮古ー久慈間71K)南リアス線(盛ー釜石間36.6K)でとても景色の良い北リアス線、チョット景色は良くないけど釜石、盛など大きい町の南リアス私も好きな路線です。
現在は殆ど普通になっています。駅舎が流されたりレールが津波でめちゃくちゃで三陸鉄道の場合復旧費用が約180億円だそうです。復旧の費用の4分の一は国の補助が出ますが、現実的にはそれでは資金を調達は出来そうもありません。
同じように宮崎の高千穂鉄道も台風で被害を受けその復旧費用を出せず廃線になっています。三陸鉄道の近くではJRの山田線、気仙沼線なども現在不通ですがこちらは何とか復旧は出来そうです。
今回、千葉の北総鉄道の企画で「スクラムきっぷ」が発売されました。三陸鉄道、阿武隈鉄道、ひたちなか海浜鉄道、鹿島臨海鉄道の被災4社に北総を入れて5社のD型硬券のセットです。北総は190円、他は大体300円位です。
販売金額によって各社に配分されるそうです。各社が単独でやるより北総の方がまだ多く販売できるでしょう。本当はもっと東京の大手の事業者がやってくれればたぶん各社の1年分くらい簡単に販売できるんでしょうが。でも北総の若い人の発想のようですがこれからも頑張ってやってもらいたいです。
1つは前にブログでも書きました「大田江戸前きっぷ」の発売です。往復乗車券に蒲田周辺の江戸前食事券+商店街お土産付きの企画乗車券です。
穴子丼や穴子のてんぷらなどの食事は昔から有名でしたが今までは地元の人を中心のお店がこの乗車券で結構休日は待ち時間になっています。この時期お店は休日にはアルバイトを入れています。地域には最高。
2番目は「京急ふれあいフェアIN大田」6月29日(水曜日)京急蒲田駅前の大田区産業プラザPIOで京急のジオラマ,大田区を舞台とした映画「昭和物語」の特別試写会、大田区の歴史を様々な写真で振り返るパネル展などを12時から17時まで入場無料で開催。
平日の昼間で大田区の懐かしい写真や映画「昭和物語」を映写するので当然我々ジジババが対象です。ジジババがNゲージには興味を示すのは少ないですがそこは電鉄会社がやるわけだからお金を掛けるのだから興味を示さなくてもやらざるをえない。
この手は今までは京急百貨店や本格的なものは久里浜工場でやっていました。何でか蒲田開催、年寄り対象に。
3番目は大田区のミリョク発見というタイトルで京急まちWEBマガジンで掲載しています。勿論車内掲示や駅のもポスターが貼ってあります。内容は大田区のグルメ、癒し、歴史、技でグルメは餃子でなく今回は①活気ある大田区商店街の名物パン屋②黒湯のまち・蒲田でホッこり湯煙の旅③カメラを持って大田区歴史散策④モノづくりのまち・蒲田の切子体験
①名物パン屋として雑色のベーカリーホーム,梅屋敷のブランジェリなど
②蒲田温泉、第二日の出湯、スパホテル和など
③蒲田八幡神社、松竹蒲田撮影所跡、六郷神社、六郷水門など
④グラスフォレストでの体験
中身はさておき何でだろこのところ京急は大田区特に蒲田を中心にイベントなどを開催したり後援したりしています。京急蒲田駅飛ばしの決着がついていないから色々やっているのかと勘ぐってしまいます。
1時間に一本飛ばしたからって京急蒲田の商店街は死活問題といっていましたから。でも良く見ると大田区内の京急沿線の元気のある商店街は何処も快特、特急、急行すら止まらない商店街が元気なんだけどなぁ。糀谷、梅屋敷、雑色の駅。
堺すすむではないけれど「京浜急行はなんだかなぁ。」遠慮しすぎのように見える。まぁ金持ち喧嘩せずとも言うが。
京急WEBマガジン
http://www.keikyu-ensen.com/kqmachiwebmagazine/
京急ふれあいフェアIN大田
http://www.keikyu-ensen.com/eventDetail/98
官設大森停車場は明治9年開業しました。蒲田停車場はそれから遅れて明治37年に開業しました。やはり当初は乗降客は少なかったようです。
並走するように京浜電車は明治32年の六郷橋のたもとから川崎大師までの参詣客を運びながら川崎を中心に次第に線路を延ばし明治34年六郷から蒲田・大森海岸を通って官設鉄道大森停車場、35年に穴守線、38年に八ッ山、神奈川間が開通します。
官設鉄道はまだ蒸気列車で電車ではありませんが並走していれば当然競争になります。スピードでは停車駅の少ない官設鉄道が早く、京浜電車は座り心地の良いシートや大型電車、安い運賃、便利さ(乗降駅の多さ)を武器に乗客獲得に競争します。
沿線に穴守稲荷、川崎大師などの有名寺社ががあり縁日には化粧品会社とタイアップのサービスディを設けたりしたようです。次第に関東大震災で家を失った人々が郊外の大田区をはじめ市街地周辺に移り住むようになってきます。
現在も京急はJRと並行している品川、横浜、久里浜間でスピードだったり運賃・サービスで競争しています。空港線では、JRグループの東京モノレールと競争しています。このモノレールとの競争は最近、大田区役所も巻き込んでいます。JRも電車特定区間運賃と云う枠を設けて運賃値引きしています。この競争は明治からだったんですね。
線路幅、軌間は官設鉄道は1067㎜でイギリスは植民地にしているところなど大体この狭い軌間になっています。大隈重信が解らなく全て英国技師に投げたのが原因と言われています。戦前にはこの幅を標準軌(1435㎜)に軍部が戻そうと議論がありましたが資金難や時間などで結局当初のままです。国鉄時代にやっと新設のレールの新幹線は標準軌になりました。
多くの私鉄も1067㎜ですが京浜電車は当初から1435㎜でスピードが1067㎜に比べればでます。また一部の事業者は馬車鉄道のままのもっと狭い軌間を使用しているものもあります。関西の私鉄はスピード重視で標準軌です。関東では地下鉄以外少ないようです。
現京急は大田区内では本線が大森海岸・平和島・大森町・梅屋敷・京急蒲田・雑色(ぞうしき)・六郷土手、空港線が京急蒲田から糀谷(こうじや)・大鳥居・穴守稲荷・天空橋・国際線ターミナル駅・国内線ターミナル駅となります。
平和島は学校裏と呼ばれ大森町は山谷と呼ばれていました。昭和62年には京浜という駅名を京急へ改称、戦前には大森海岸、平和島間には八幡、京急蒲田、雑色間には出村と云う駅もあった。
山王台地が明治中頃から大正期にかけて高級住宅地として発展するのは官設の大森停車場が開設したことによるところが大きい。開業当初は乗客が少なかったが明治22年頃から山王台地に政治家、実業家、高級官吏、将校などの住宅、別荘が建ち始めた。
明治の大森停車場は東海道線の陸蒸気と云われた列車で電車はまだ走っていなく本数も少なく時間通りでもなくホームで待つ必要があった。
プラットホームは上りと下りに別々にあり駅の東側には待合室があったが上りのホームには無く、簡単な屋根とベンチだけだった。それでは待ち時間が長く風雨に晒されることもあり不便で当局に陳情するも中々実現しない。
そこで今の西口の一部に50坪程の土地を借り自分たちで作ろうと言う事のなり会員を募り本当に明治39年に作ってしまった。会員は著名な政治家、学者、実業家、軍人など。初代委員長に司法官児島惟謙(こじま・これたか)が選ばれた。このおじさん確か丸亀だか宇和島の城内の広場で銅像を見たような?
この施設は待合室だけでなく社交場としての機能も持ちビリヤード、囲碁、将棋などもできそれなりの人の溜まり場になった。お互いの家を行き来しなくて、家人にも迷惑がかからず倶楽部として機能していったようです。
まだ電話も普及していない時代ここに来れば誰かに会えると言う「倶楽部」の機能が喜ばれたようです。入会金5円、月会費1円、夫婦者を雇い住まわせていたようです。
荏原郡の貴族院とも言われ地域の発展のためにも尽力をした。元来農村の新井宿と漁業の不入斗の合併の入新井村にも嫌がる不入斗の人々を調整をしたそうです。大正2年には西口出改所が出来、跨線橋も出来、この倶楽部の運動のたまものと言われている。
初期の目的を達成したのだから倶楽部は解散かと思いきや未だに大森倶楽部は存在し活動をしています。当初の目的から活動内容は変わっています。馬込文士村等のPR活動など。5月末にモントレで総会が行なわれていたようです。設立から100年以上経っています。
大森倶楽部(JR大森駅 西口のスロープの右側 駅に隣接)
明治34年(1901)大森町、入新井町(新井宿・不入斗)に電気がつきました。大田区では一番最初についたと言われています。これは現京浜急行の前身の大師電気鉄道改め京浜電気鉄道が明治34年(1901)2月に品川延長線として六郷橋~官設鉄道の大森停車場(現JR大森駅)に開通させたことによります。
私鉄としては明治32年1月に日本で3番目、関東では一番最初の大師電気鉄道が六郷橋~大師まで開通しました。その当時は電気は未知なもので電気で走る車とはどんなものか開業当初は多くの見物客が集まったようです。
川崎大師の参拝客の為の電車ですが早く東京方面、穴守神社方面へ接続したいという目的もありとりあえず明治34年に六郷橋~(大森海岸経由)大森駅への開通を図り、翌年には京浜蒲田~穴守、六郷橋~京浜川崎と部分的に開通をしていきます。
今の大森海岸とJR大森駅間に京浜電車が走っていました。大森駅に接続ではなく現在の東海ビルにループ線を設けぐるっと回って走っていたようです。ですからその名残で東海ビルのところはぐるっと丸くなっています。(駅名は大森停車場前)
京浜電車は余った電気を有料にて各家庭に送電していました。電車事業でばかりでなく当時は電力供給事業もやっていました。これは川崎の火力発電所から大森発電所を経由して配分していました。
六郷橋~品川間の軌道施設が認可され電柱工事など配線が終了した大森町区域の一部で明治34年8月24日から電灯供給事業を始めました。最初の供給は大森町43戸、163灯に過ぎなかった。これはランプが主流でまだ電灯に対する認識もなく供給地域も狭かったのが要因でした。
その当時の大師電気鉄道の収入は108円82銭で平均1戸当たりの電気代が約2円50銭で米が25K買えたようで大変贅沢なものでもありました。
明治34年 大森、入新井、大井、明治42年 蒲田、羽田、六郷、川崎、大師 明治43年 馬込、池上、御幸、田島と徐々に増えて行きました。
明治34年の送電から明治42年までは冬場午後4時半から夏場は午後6時半から午前1時までの送電でした。スイッチを入れればつく便利な電灯は徐々に普及、日露戦争景気により多くの工場が建ち電力需要が拡大していきました。
43戸から始まった電灯・電力事業も大正2年年末には15町村1万戸に最盛期の大正10年には3万戸になったようです。第一次大戦後の大正の大恐慌により電力供給会社が競争相手の東京電灯(東京電力)に吸収合併されていき京浜電車も川崎運河等の多大な費用が必要になり電灯・電力事業から鉄道事業へ資金をシフトせざるを得なくなり22年間の事業から撤退をしました。
上の図は大森停車場前のループ線を走る電車。下図は桜並木の六郷橋、大師間を走る開業当時の大師電気鉄道。左側の電柱には仁丹の広告があります。
上の石は京浜電車の走っていた敷石。現在は大森のイトーヨーカドー前に保存されています。
資料、京急グループ110年史より
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