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府内城
別名 大分城、荷揚城
構造 梯格式平城
天守 非現存
築城 福原直高
城主 竹中、日野根、松平氏
遺構 櫓2棟、石垣、堀、塀
再建 櫓、門、屋根付き廊下橋
屋根付き廊下橋。
九州平定後備後国は大友宗麟の子大友義統の領で有ったが朝鮮役で軍令違反で改易、三成の娘婿福原直高が12万石で入城、関ケ原後は竹中半兵衛の従妹重利が3万5千石、その後日野根氏、松平氏で明治を迎える。今は海城のイメージはない。城の別名や住所で船で荷揚をしたところという名前だけが残っている。
地盤が弱いので堀の石垣には犬走が設けている。近くにザビエル像が。
別名 臥牛城、豊後竹田城
構造 梯格式山城
天守 不明
築城 緒方氏
城主 志賀、中川氏
遺構 石垣
雨の日の攻め入った、当然私一人で途中の坂のお土産屋では大きな音で荒城の月が流れている。ぐるっと高石垣が巡らせている。西の丸のは礎石が残っている。各郭を見乍ら昔をしのぶのはこういう石垣だけの方がなまじ債権の建物があるより潔い。
後で書くが滝廉太郎に拘らず此処では城の麓の日露戦争での第一号になった軍神広瀬中佐を祀る広瀬神社、田能村竹田の方が良いのにと思う。
構造 複合式層塔型3重3階
非現存
城主 木下延俊
遺構 移築櫓、移築門、天守台、石垣
大友配下の大神氏の拠点、朝鮮役で軍令に背き撤退した大友義統改易後豊臣家臣の毛利重政が城代に、慶長7年初代藩主として木下延俊が入城、義兄の細川忠興の支援で築城。木下家は豊臣秀吉の正室ねねの実家で関ケ原では東軍に属した。此処にも滝廉太郎の像がある。瀧家は代々家老職を務めていた。
此処では海から真水が湧くようで有名な城下かれいがある、
荒城の月は岡城となっているが城マニアでは作詞が土井晩翠でイメージは仙台青葉城、会津若松城、幼少期を過ごした富山城とも言われている。
作曲家滝廉太郎は東京生まれで父の仕事の関係で東京から富山、東京で15歳で今の東京芸大に入学、ドイツに留学するが肺結核で帰国。23歳で大分府内町で亡くなる。墓は日出町に。父の実家は竹田にあり今回の3つのお城に相互に関わっている。
これらは、総て大分県にあるお城ですよね!
九州のお城は熊本城は数回行ってるが、その他は
ほとんど知らないのです!
私は、岡城が荒城の月のモデルと思ってましたが
パパリンさんが書いてる土井晩翠のお話を
読ませてもらうと、ちょっと違うかもって
思いますよね!
大分県も風情があるお城があるんですね!
おはようございます。
大分は大友宗麟が平定していましたが朝鮮役などで改易され多くの細かい領土に分かれましたが秀吉絡みで領土を貰った人が多 く関ケ原ではまた改易になっていますね。
大友宗麟はキリシタン大名の筆頭格ですがご存知のようにポルトガルとの貿易がメインで宣教師に近づいたようですね。火薬1樽に若い女性を50人を奴隷商人に売り飛ばしたり宣教師に大砲を要望し1門は足利将軍から織田信長に、1門は臼杵城に添えられたが島津氏に攻略され奪われた。今は靖国神社に置かれています。
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