美術館・鉄道・お城・お相撲・お友達の話など趣味のブログです。
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江戸城の外濠に何で弁慶かと思っていましたが普段ホテルへ行く道の向い側に書いてありました。この橋は明治22年に神田から移築されたもので神田の時代から弁慶橋と言われていました。
もう少し行くと紀尾井坂と濠が接するあたりが今無き喰違見附になります。ここも1874年1月14日(明治7年の今日)に岩倉具視が不平士族に襲われたところです。岩倉具視は濠に転がり難を逃れました。(喰違の変)
岩倉具視は皇女和宮を14代将軍家茂に降嫁させ公武合体に尽力しましたが、その為に洛中から追われ命を狙われ続けましたが、のちに朝廷に返り咲き王政復古を成し遂げ、その後は岩倉使節団として明治の初期の活躍をする多くの人を連れ海外見聞を広めました。
そこから紀之国坂を登ると白い鉄柵の迎賓館が出てきます。此処までは良く行くのですが此処から四谷、お茶ノ水へ向かう外濠を歩くことは中々無く今度温かくなって桜でも見ながら外濠一周をしてみたいと思っています。
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池上本門寺は私の散策コースの一つです。日蓮聖人が入滅された霊域でもあります。この領地の池上宗仲公の館内で亡くなられ、公がその後法華経の字数に合わせ約7万坪を寄進、日蓮の高弟日朗がその基礎を築き日蓮宗の中核寺院になっています。
江戸時代には将軍や大名諸侯を始め多くの江戸町民の信仰を集め大伽藍が整いますが戦災で多くを焼失しましたが現在の立派な伽藍も復興しています。此処には大名、側室、現代の有名人のお墓が沢山あります。
小さい頃からこの境内や周辺で遊んでいますが今だ誰が何処にあるのか全貌は解っていません。ガイドブックやボランティアガイドなどのツアーがあります。今度一度参加しようと思っていたりします。
先日もかみさんと初詣(実は2度目)に行きました。本門寺の大堂で参拝してそのまま帰るのでなくやはり日蓮入滅の大坊本行寺へ参拝をしなくてはと脇からの階段を探しました。普段はこの本行寺へ先に行ってその脇から上るのです。この方があの加藤清正寄進の此経難持坂を息切れして登らなくてすみます。
もう勝手に経蔵の脇当たりだと思い込み入っていきますがかみさんは違う大堂の裏から降りるんだと言っていますがいやぁ違うと降りて行きました。結果はかみさんの言う方が正解でした。もう年をとると頑固になるんでしょうか、間違いが解ってやっと気がつく有様です。
しかし途中加藤清正の供養塔、日樹聖人五輪塔等がありました。この辺は昔子供が小さい頃せみ取りに入り込んだ以来です。まぁ頑固で此処に在ることが解り私は納得、かみさんはほら、言う事を聞かないからまた坂を上るんだとプンプン。
本行寺へ行く手前に多宝塔があります。日蓮聖人を荼毘にした場所に550年遠忌を記念して建てられた屋外に建つ日本で唯一の木造の宝塔です。日蓮の霊廟は余り人が行かない本殿の裏にあります。
この近くには江戸時代の御用絵師狩野派の4家90基近くのお墓があります。探幽など多くのお墓があり松濤園には弟子の橋本雅邦の筆塚などもあります。狩野派の菩提寺ですから霊宝殿には沢山の絵画があるんでしょう。長谷川等伯との争いなど頭に浮かべながら散策をします。しかし、思いっきり反対の方へ思い込んで歩いたりこの所どうも調子が悪い。一人でならしょうがない間違えたで済みますが他の人と同行の場合は本当に注意をしなくては。
江戸時代には将軍や大名諸侯を始め多くの江戸町民の信仰を集め大伽藍が整いますが戦災で多くを焼失しましたが現在の立派な伽藍も復興しています。此処には大名、側室、現代の有名人のお墓が沢山あります。
小さい頃からこの境内や周辺で遊んでいますが今だ誰が何処にあるのか全貌は解っていません。ガイドブックやボランティアガイドなどのツアーがあります。今度一度参加しようと思っていたりします。
もう勝手に経蔵の脇当たりだと思い込み入っていきますがかみさんは違う大堂の裏から降りるんだと言っていますがいやぁ違うと降りて行きました。結果はかみさんの言う方が正解でした。もう年をとると頑固になるんでしょうか、間違いが解ってやっと気がつく有様です。
しかし途中加藤清正の供養塔、日樹聖人五輪塔等がありました。この辺は昔子供が小さい頃せみ取りに入り込んだ以来です。まぁ頑固で此処に在ることが解り私は納得、かみさんはほら、言う事を聞かないからまた坂を上るんだとプンプン。
この近くには江戸時代の御用絵師狩野派の4家90基近くのお墓があります。探幽など多くのお墓があり松濤園には弟子の橋本雅邦の筆塚などもあります。狩野派の菩提寺ですから霊宝殿には沢山の絵画があるんでしょう。長谷川等伯との争いなど頭に浮かべながら散策をします。しかし、思いっきり反対の方へ思い込んで歩いたりこの所どうも調子が悪い。一人でならしょうがない間違えたで済みますが他の人と同行の場合は本当に注意をしなくては。
湯島天神は時期的に受験生やその家族でごった返しています。山になった絵馬、みんな志望校に受かると良いなぁ。境内の梅はまだ蕾も小さくまだまだ先のようで絵馬の成就の頃にぱっと咲くのでしょうか。
当時江戸一番の人気だった歳の市は、江戸一番の盛り場浅草の浅草寺の納めの観音の日、今年最後の縁日に行われそれはそれは大変な人出で、神棚、注連縄、重箱、屠蘇散、茶碗、箸、三宝等と共に正月の子供の遊びである羽子板、独楽、カルタなどが売られていたようです。
まだ写真の無い頃年末の羽子板市ではその年の評判を呼んだ歌舞伎の舞台を描き、若い女性がスターのブロマイドのような役目を果たしその売れ行きは役者の人気度を示すものだったようです。
今日は朝から夕方までブログのサイトのサーバーメンテナンスで書くことが出来ませんでした。
暮に向けての商品販売でしたが昔の名残で臼や杵、鍋釜、神棚、農業で使う道具などは少なくなっていますがしっかりお店が出ています。今や年末の風物詩で沢山のお客さんがそぞろ歩いています。
本来は代官屋敷の通り、通称ボロ市通りが中心ですがもう東急世田谷線の世田谷駅を降りれば屋台がずっと続いています。原宿みたいに道があればお店が出ている状態です。降りてすぐが復興支援青空マーケットで岩手、福島のお店が出店しています。
かみさんは可愛いガラス製品など購入、私は相変わらず甘い招福最中、なぜか鍋用の太い深谷ネギを購入。泥つきネギを持って若者の町三軒茶屋から渋谷と結構混んでいる山手線で帰宅。歳を取ると恥ずかしさもなく美味しい鍋のためならカッコも何もなくなります。中々スーパーでは売っていなくこの太いネギが鍋には最高です。
ちょっと残念は昨年食べられなかった代官餅は今年も売り切れでした。縁起餅ですから一度は食べてみたい。次回の楽しみにします。それにしても大勢の人で皆さんお祭りが好きです。あぁ私達もそうでした。
コース概略はJR両国駅→本所松坂町公園吉良邸跡→回向院→両国橋→仙台藩蔵屋敷跡→ちくま味噌(休息の場)→永代橋→浅野内匠頭邸跡→田村右京太夫屋敷跡→泉岳寺→細川家下屋敷跡

ちくま味噌の赤穂浪士の休息の碑から右にあります永代橋を渡ります。この時間はもうきっと渡れる時間だったんでしょうか。渡って直ぐ左側の鍛冶橋通りを歩き今の八丁堀駅を目指します。
駅にぶっかって新大橋通りを南下し左に佃大橋の標識が出ます。大橋に少し向かうと右側に聖路加病院がその先には有名な大きな聖路加ガーデンが見えてきます。病院の間に聖路加看護大学がありその脇に浅野内匠頭邸跡の碑があります。私は此処で病院の方へ行き過ぎ結局この付近を1周してしまいました。
この地域は明石町といいます。隅田川沿いは播州明石の風景に似ていたそうで地名が誕生したそうです。赤穂浪士はこの世の見納めと浅野家上屋敷方面に迂回をしたのでしょう。当時はお家没収でしたからこの屋敷には他の大名のものになっていました。


この碑を西に行けば築地に出ます。日刊スポーツ社などの看板も出てきます。築地駅の先が築地本願寺です。京都の浄土真宗西本願寺の東京別院で明暦の大火でこの埋立地の方へ横山町から移転していました。
この本願寺は入って左側に間新六の供養碑があります。遺体を引き取った家族が埋葬したとか泉岳寺に向かう時自身が供養依頼文を書いて槍にきんすを付けて投げ入れたとか言われています。
本願寺は古代インド風の建物で遠目からは日本のお寺には見えませんし中もステンドグラスが入っていたり本殿参拝も仏像画だけで何となく異教のような気がします。此処はエックスジャパンの「ヒデ」フアンの聖地でもあり前は本堂左前方にありましたが今は左側後方にHiDEノートなどがあります。
築地から銀座方面を目指します。築地の場外市場も多くの人で溢れています。美味しい寿司や刺身を求めているんでしょうか。今日の昼食は寂しかったが次へ行かなくては。
次は新橋4丁目の浅野内匠頭の切腹した田村右京太夫屋敷跡です。銀座は大変な混雑で其れでなくても細い歩道が溢れ前に中々いけません。多くの人がブランドビルからデパートから買い物袋を持って出てきます。景気が良くないと言いながら此処は少し違うようです。
途中横にそれ新橋駅を目指します。しかし、新橋4丁目と言う住所は西側汽車ぽっぽが置いてある方ですが4丁目は芝方面で結局1丁目から4丁目まで南下しました。目的の切腹の地は現在工事中で看板はありません。

この由来で和菓子屋新正堂が有名な切腹最中、義士羊羹、仮名手本忠臣蔵味こよみなどを販売しています。切腹最中は皮から餡が溢れるくらい飛び出し最中が切腹しているように作られています。義士羊羹は国芳の浮世絵の各義士の絵がパッケージされています。今日はお店の人も討ち入りスタイルです。
後は亡き殿の墓前報告をした泉岳寺になりました。第一京浜国道、昔の東海道を南下すれば直ぐです。此処で気が緩みました。もう直ぐだと。気が付けば此処からまだ浜松町、田町と泉岳寺とあります。
足がじんじんして足裏には豆が出来かけていました。スニーカーを代えたのがいけないのかと悔やみながら速度は急に落ちました。新橋を3時に出ました。もう此処まで5時間歩いています。もう直線距離ですが着物のご婦人にも抜かれます。
40分掛けて何とか泉岳寺に着きました。何十年振りかの泉岳寺です。山門を入ると大勢の人が参拝しています。右には昔なかった大石内蔵助像、義士の菩提所は石囲いが新しくなっています。





お線香を購入して全員のお墓に参拝しました。此処のお線香はもの凄く本数が多く全員に配れます。墓は手前が婦人の墓、その前が殿様、横の一角に大石内蔵助の墓が別角であり、各お預けの屋敷毎にお墓が建っています。その他義士の遺物等を展示している宝物館、首を洗った井戸などがあります。話が違いますが脇には横浜を作ったといわれる易聖・高島嘉右衛門の墓などもあります。
さぁこれでゴールと思いきや泉岳寺の裏の旧細川家下屋敷跡が近くにあると看板が出ています。此処で内蔵助などが切腹をしたところだそうです。今は高松宮家の屋敷の一部だそうです。非常に細い裏道、人が一人通れる生活道を登り前の人について行きました。前の人たちがいなければ分からなかった道順です。
門が今日は特別に開けられていました。入り口に碑があるだけで中は何もなく落ち葉だらけの小さいスペースでした。ここが忠烈の跡というそうです。
これで全て終わりゴールとなりました。昼食も隅田川テラスで簡単におにぎりで済ませ10時から4時過ぎまで歩きました。家から出発到着で約8時間の日帰りの旅となりました。足に豆を作り面の皮は厚くなっていますが足裏は軟になっていました。
赤穂浪士は命がけの戦いをして重い武具を着け上杉の追っ手を気にしながら傷付いた身体で此処まで歩いて1度の甘酒休息で来たのに比べれば大したことではないでしょうが四国1週間城廻より疲れました。
途中咽喉も渇き1杯飲んで帰ろうと思うも早く帰って風呂へ入ろうという気持ちのほうが強かったです。
駅にぶっかって新大橋通りを南下し左に佃大橋の標識が出ます。大橋に少し向かうと右側に聖路加病院がその先には有名な大きな聖路加ガーデンが見えてきます。病院の間に聖路加看護大学がありその脇に浅野内匠頭邸跡の碑があります。私は此処で病院の方へ行き過ぎ結局この付近を1周してしまいました。
この地域は明石町といいます。隅田川沿いは播州明石の風景に似ていたそうで地名が誕生したそうです。赤穂浪士はこの世の見納めと浅野家上屋敷方面に迂回をしたのでしょう。当時はお家没収でしたからこの屋敷には他の大名のものになっていました。
本願寺は古代インド風の建物で遠目からは日本のお寺には見えませんし中もステンドグラスが入っていたり本殿参拝も仏像画だけで何となく異教のような気がします。此処はエックスジャパンの「ヒデ」フアンの聖地でもあり前は本堂左前方にありましたが今は左側後方にHiDEノートなどがあります。
次は新橋4丁目の浅野内匠頭の切腹した田村右京太夫屋敷跡です。銀座は大変な混雑で其れでなくても細い歩道が溢れ前に中々いけません。多くの人がブランドビルからデパートから買い物袋を持って出てきます。景気が良くないと言いながら此処は少し違うようです。
途中横にそれ新橋駅を目指します。しかし、新橋4丁目と言う住所は西側汽車ぽっぽが置いてある方ですが4丁目は芝方面で結局1丁目から4丁目まで南下しました。目的の切腹の地は現在工事中で看板はありません。
後は亡き殿の墓前報告をした泉岳寺になりました。第一京浜国道、昔の東海道を南下すれば直ぐです。此処で気が緩みました。もう直ぐだと。気が付けば此処からまだ浜松町、田町と泉岳寺とあります。
足がじんじんして足裏には豆が出来かけていました。スニーカーを代えたのがいけないのかと悔やみながら速度は急に落ちました。新橋を3時に出ました。もう此処まで5時間歩いています。もう直線距離ですが着物のご婦人にも抜かれます。
40分掛けて何とか泉岳寺に着きました。何十年振りかの泉岳寺です。山門を入ると大勢の人が参拝しています。右には昔なかった大石内蔵助像、義士の菩提所は石囲いが新しくなっています。
さぁこれでゴールと思いきや泉岳寺の裏の旧細川家下屋敷跡が近くにあると看板が出ています。此処で内蔵助などが切腹をしたところだそうです。今は高松宮家の屋敷の一部だそうです。非常に細い裏道、人が一人通れる生活道を登り前の人について行きました。前の人たちがいなければ分からなかった道順です。
これで全て終わりゴールとなりました。昼食も隅田川テラスで簡単におにぎりで済ませ10時から4時過ぎまで歩きました。家から出発到着で約8時間の日帰りの旅となりました。足に豆を作り面の皮は厚くなっていますが足裏は軟になっていました。
赤穂浪士は命がけの戦いをして重い武具を着け上杉の追っ手を気にしながら傷付いた身体で此処まで歩いて1度の甘酒休息で来たのに比べれば大したことではないでしょうが四国1週間城廻より疲れました。
途中咽喉も渇き1杯飲んで帰ろうと思うも早く帰って風呂へ入ろうという気持ちのほうが強かったです。
このコースはバラバラでは知っていますが通して歩くのは初めてです。大体6Kとか8Kとか言われています。前からコースを頭に入れて机上訓練はしていました。しかし、結果は結構迷ったり行き過ぎで戻ったりコース外に寄ったりと当初の予定とはかなり違いました。一人で歩いていますから文句を言う人がいないのが幸いでした。
コース概略はJR両国駅→本所松坂町公園吉良邸跡→回向院→両国橋→仙台藩蔵屋敷跡→ちくま味噌(休息の場)→永代橋→浅野内匠頭邸跡→田村右京太夫屋敷跡→泉岳寺→細川家下屋敷跡
時は元禄15年12月14日の夜明けまえ所は、、、と講談の名調子の赤穂浪士の討ち入りの場面です。時期的な散策としては丁度良いと思って散策を計画していました。初めてですからまず一人で歩きしっかり道を頭に身体に入れないと迷っても違っても今回は迷惑を掛けません。
10時にはJR両国駅に着きました。小旗をもっているガイドさんたちが沢山居ます。あぁ国技館、江戸東京博物館でも行くのかはたまた両国散策かと思っていました。駅には忠臣蔵のポスター、隣の江戸東京博物館も絵で見る忠臣蔵をやっています。いやがおうにも気合が入ります。
この人達も義士引き上げの道散策ツアーだと途中から気が付きました。10時の段階でかなりの団体がいました。有料のツアー、無料は少ないようです。バスで目ぼしい所を廻るツアーなどがあるようです。
まず回向院を見ながら裏門から吉良邸跡へ行きました。横丁にはテントが立って多くの人がいます。今日が義士祭とは別に元禄祭が土日に開催中でした。模擬店や羊羹、まんじゅうの売店など各町会で出店しています。
順序が違っていますがこの吉良邸の近くの堀部安兵衛などの数箇所の家から集まり討ち入りをしました。本懐を遂げ近くの回向院へ行きますが関わりあいを避け休息を断られ、両国橋へ向かいますがここでも渡橋を断られます。
また京葉道路を少し戻り一ッ目通りを南下します。暫くすると右に新大橋がでます。本来はそのまま南下するんですが私は左に曲がり地下鉄大江戸線森下駅に向かい、駅近くの「カトレア」というパン屋さんへ行きました。このお店のカレーパンが元祖で1度食べた事がありますが中々森下へ来る事も無いので横道にそれて食い意地を張り買いに行きました。ラッキーなことにちょうど揚げたてのパンを購入できました。
隅田川は水上バスめぐりでもそうですが沢山の橋があり一つづつみんな造りが違います。ですから橋めぐりの旅でもあります。今回も両国橋、新大橋、清洲橋、隅田川大橋、永代橋、中央大橋、佃大橋などが見られます。
長くなりましたので次回に。
このフリーエムエルのブログ仲間のクッシーさんがいると言う事でサプライズの参加だったようです。新宿御苑は桜の季節にかなり前に来ただけで冬に来るとは思ってもいませんでした。ちょっと紅葉の時期が数日ずれ、また雨が続いていましたのプラタナスなどは全部落ちていました。そのプラタナスもパリのシャンゼリゼ通りのような真黄色でないのがちょっと残念です。
後で思うこのタイトルの果実は何だったんだろう。まさか夏みかんでもあるまいし?2時間後解散して園内の日本庭園、イギリス・フランス庭園を散策して暖かい陽だまりでお弁当を戴き千駄ヶ谷門から神宮外苑に足を伸ばしました。
今日はラグビーも学生の大会で多くの人が吸い込まれ校歌が流れています。また球場はヤクルトのフアン感謝デーのようです。神宮外苑はイチョウ祭りで此処も沢山の人出で屋台は北海道から沖縄のB級グルメが出て長い行列です。新宿御苑でご飯を食べて良かった。こんな埃だらけの中では?
かみさんが激写している間は凄い人波を、イチョウの紅葉を楽しんでいました。さて帰りをどうするか地下鉄で帰るか悩みましたがそのまま渋谷方向へ歩き、途中お茶してJRでなく今日は東急線で帰宅しました。万歩計を持っていませんでしたが結構な距離を9時半から4時半まで歩きました。
歩くのが苦にならない師走になって初めての散策日和でした。お土産は落ち葉と思い出です。
写真の小さいのは左から寒ボケ、ヒマラヤ桜、10月桜です。バラもこの時期に咲くんですね。頭上一杯赤い楓の群集、大きなイチョウの木下でくつろぐ人、日差しにすかして一生懸命の撮影者、皆頑張っています。
でもお土産の落ち葉の隣は幹が腐っていても頑張って上に葉をつけている名前分からずの木、何となくがんばれと声をかけました。この木が一番頑張っていた。右は絵画館前の銀杏並木。
でもお土産の落ち葉の隣は幹が腐っていても頑張って上に葉をつけている名前分からずの木、何となくがんばれと声をかけました。この木が一番頑張っていた。右は絵画館前の銀杏並木。
今日はTシャツで過ごせる暖かさでその気候に誘われ京急の久里浜駅に近い「久里浜花の国」へかみさんと鳥九のお弁当をもってコスモスを見ながらの散策をしました。もうそろそろコスモスも終わりになりますがまだ山の斜面一面に咲いています。久里浜はペリーが開国をせまった港町です。対岸には房総が見えます。






元々は米軍の倉庫があったところで23,000㎡に秋はコスモス、春はポピーが一面に咲き乱れています。コスモスは100万本だそうで、最終日には好きなだけ切って持っていってもらうイベントがあります。
入場は無料で山の斜面ですから有料の機関車型バスが走っています。中には足湯、アスレチック、パークゴルフ、ハーブ園、全国の県木などがあります。
今日は本当に暑くTシャツがびしょびしょで平日ですからベンチも東屋も空いてゆっくりお弁当を広げる事ができました。休日は大変な人で前に家族で行った時は食べるスペースもない位混みあっていました。
家で食べるお弁当と違い青空で海も見えすがすがしい風に吹かれ美味しく戴きました。芝生でちょっとウトウトしたい気持ちの良い一日でした。
かみさんは帰りに横浜へ。私はネコの餌やりに。
夜は一転木枯らし一号が吹くという天気予報です。


元々は米軍の倉庫があったところで23,000㎡に秋はコスモス、春はポピーが一面に咲き乱れています。コスモスは100万本だそうで、最終日には好きなだけ切って持っていってもらうイベントがあります。
入場は無料で山の斜面ですから有料の機関車型バスが走っています。中には足湯、アスレチック、パークゴルフ、ハーブ園、全国の県木などがあります。
今日は本当に暑くTシャツがびしょびしょで平日ですからベンチも東屋も空いてゆっくりお弁当を広げる事ができました。休日は大変な人で前に家族で行った時は食べるスペースもない位混みあっていました。
家で食べるお弁当と違い青空で海も見えすがすがしい風に吹かれ美味しく戴きました。芝生でちょっとウトウトしたい気持ちの良い一日でした。
かみさんは帰りに横浜へ。私はネコの餌やりに。
夜は一転木枯らし一号が吹くという天気予報です。
鉄道フェスタは1時間位で切り上げ、折角の秋晴れ、東京のど真ん中皇居がありますから今年のお花見以来の散策をしました。



左が日比谷公園から出て直ぐの外堀、日比谷壕です。大きな鯉が泳いでいます。
次が第一生命ビル、戦後はアメリカGHQの本部にマッカーサーも此処にいたらしい。
隣がやはり米軍に接収され極東空軍司令部にされた明治生命館、右が帝国劇場、米軍の娯楽施設として沖縄で戦死した米軍従軍記者の名前を取って「アーニー・パイル劇場」と呼ばれていた。
アメリカ軍は後で自分達が使う為に爆撃をしなかったようです。神奈川の横須賀基地も同様だそうです。それだけ情報も戦争の余裕もある国と戦っても負けるのが当然だったんですね。そんな事を思いながらパレスホテルの近くまで来て坂下門から内堀へ向かう。





桜田櫓、辰巳櫓とも言います。この他に富士見、伏見櫓の三基しか残っていません。桜田櫓は壕から少し飛び出ているのが石落としです。伏見櫓を撮りそこないました。
二重橋では外人さんも多いし白人だけでなく中国人?の団体が多かった。一時殆ど浅草寺などでも見かけなくなった中国人・台湾の団体もやっと来るようになったんだろうか。
国会議事堂も戦時中は迷彩色に塗られていたそうです。訳が分からないが戦後衆議院側はメカニカルな方法で貴族院側はケミカルな方法で、できばえ、スピードを競ったそうです。結果はケミカルが圧勝だったようです。
国会議事堂は内堀から見えたのでシャメしようといくも木々があり結局結構な距離を歩かされた。その木々はイチョウで台風の後に実が落ちたと新聞で読んだが今も、かすかにあの独特な匂いがします。いくつかはまだ頑張って実をつけています。数少ないけど頑張れよ。
そんな事を思いながら歩いていたらかみさんからメールがあり今晩の夕食を買って来い。との指令がありました。渡る同居の鬼、言う事を聞かなければ、早速日比谷公園に戻るも12時過ぎで弁当はあるか?急ぎ足で向かい何とか3つゲット。無ければ東京駅へ行かなければと思いました。
今日のタイトルに宮城と書きましたが昔大先輩がみやぎとお読みになったのを思い出しながらタイトルにしました。今の若い人はみやぎと読んじゃうでしょうね。そう言えば鉄道フェスタで宮城県石巻産の鯨の缶詰を買ったんだ。私も突然なら、みやぎと読んじゃうかも。
そんな事で中途半端な散策でしたが、色々な風景を、本で読んだ建物の歴史を思い出しました。
次が第一生命ビル、戦後はアメリカGHQの本部にマッカーサーも此処にいたらしい。
隣がやはり米軍に接収され極東空軍司令部にされた明治生命館、右が帝国劇場、米軍の娯楽施設として沖縄で戦死した米軍従軍記者の名前を取って「アーニー・パイル劇場」と呼ばれていた。
アメリカ軍は後で自分達が使う為に爆撃をしなかったようです。神奈川の横須賀基地も同様だそうです。それだけ情報も戦争の余裕もある国と戦っても負けるのが当然だったんですね。そんな事を思いながらパレスホテルの近くまで来て坂下門から内堀へ向かう。
桜田櫓、辰巳櫓とも言います。この他に富士見、伏見櫓の三基しか残っていません。桜田櫓は壕から少し飛び出ているのが石落としです。伏見櫓を撮りそこないました。
二重橋では外人さんも多いし白人だけでなく中国人?の団体が多かった。一時殆ど浅草寺などでも見かけなくなった中国人・台湾の団体もやっと来るようになったんだろうか。
国会議事堂も戦時中は迷彩色に塗られていたそうです。訳が分からないが戦後衆議院側はメカニカルな方法で貴族院側はケミカルな方法で、できばえ、スピードを競ったそうです。結果はケミカルが圧勝だったようです。
国会議事堂は内堀から見えたのでシャメしようといくも木々があり結局結構な距離を歩かされた。その木々はイチョウで台風の後に実が落ちたと新聞で読んだが今も、かすかにあの独特な匂いがします。いくつかはまだ頑張って実をつけています。数少ないけど頑張れよ。
そんな事を思いながら歩いていたらかみさんからメールがあり今晩の夕食を買って来い。との指令がありました。渡る同居の鬼、言う事を聞かなければ、早速日比谷公園に戻るも12時過ぎで弁当はあるか?急ぎ足で向かい何とか3つゲット。無ければ東京駅へ行かなければと思いました。
今日のタイトルに宮城と書きましたが昔大先輩がみやぎとお読みになったのを思い出しながらタイトルにしました。今の若い人はみやぎと読んじゃうでしょうね。そう言えば鉄道フェスタで宮城県石巻産の鯨の缶詰を買ったんだ。私も突然なら、みやぎと読んじゃうかも。
そんな事で中途半端な散策でしたが、色々な風景を、本で読んだ建物の歴史を思い出しました。
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