美術館・鉄道・お城・お相撲・お友達の話など趣味のブログです。
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通称 益岡城
構造 平山城
天守 なし、三階櫓、1995年木造にて復元
城主 白石氏、蒲生、上杉、片倉氏
遺構 石垣、移築門
開門 9時~17時 休館年末、300円
現在は修復中。
伊達藩から豊臣秀吉に取り上げられたがまた伊達藩になり明治まで伊達藩の支城、珍しく一国一城から対象外にされた。天守代用として三階櫓を用いているが幕府への配慮で天守そのものの大櫓で付け櫓がある。
ネットで見たらたまたま1日は城内見学が出来るという事で福島から30分の宮城県白石へ来ましたが、ヘルメット着用で1階まででちょっと拍子抜けの見学でした。今回は時間もなく駅から無料レンタサイクルで市内を廻りました。
このお城は、史実に基づき木造復元のお城ですが、このお城を有る意味有名にしたのは、明治維新の奥羽越31藩同盟でこのお城で結ばれました。結果は新政府軍に負け白石の人は追放され蝦夷地で開拓民となります。現在も北海道には白石区や白石駅等多くの名前が残っています。
http://www.copint.jp/our-town/03.html
昼食は白石うーめん+まぜご飯を戴き、途中蔵王酒造の大吟醸アイスクリームもデザートも珍しく戴きました。お土産は蔵王酒造辛口4合瓶の大吟醸、そこの麹を入れた温麺、鐘崎の笹かまぼこがお土産。今回は少なくしたつもりですがお酒があり重かった。
通称 小峰城
構造 平山城
天守 三重櫓(1991年木造復元)
城主 結城、蒲生、丹羽、松平、阿部遺構 石垣、土塁、堀
見学 現在修復工事の為入場できず
このお城は東北では珍しい総石垣造りで、盛岡城、若松城と共に東北三名城と言われていた。また白河の関など東北の交通の要でもあった。
その後城主が目まぐるしく変わり最後の阿部氏以降は幕領となり二本松藩の預かりとなる。1868年(慶応4年)戊辰戦争で奥州越列藩同盟軍と新政府軍との攻防戦になり大半を焼失、落城となる。二本松藩は何もできない少年隊を結成(二本松少年隊)官軍と戦わせていながら丹羽長国一家は米沢に逃げている。
現在は昨年の東日本大震災で石垣が崩れ、中には入れません。工事柵から見るとあと少しで天守も崩落しそうです。至る所の石垣が崩れています。これを組み直すには大分時間がかかるのではないでしょうか。白河駅のホームからの見えるコンパクトなお城ですがちょっと残念です。
復元するなら木造建築のほうがお城らしい昔の建築技術の伝承にもなります。
行けませんでしたが寛政の改革で有名な松平定信の作った南湖公園も少し離れていますがあるようです。
通称 鶴ヶ城、若松城
構造 平山城
天守 層塔型5重5階RC造り1965年
城主 蘆名、蒲生、上杉、加藤、保科氏など
遺構 石垣、土塁、堀
時間 8時半~17時 500円、駅から40分
再建された天守は郷土博物館になっている。蘆名氏を伊達政宗が攻め落とし、その後蒲生氏が入封城を整備、その後上杉景勝120万石で入場も西軍加担により30万石で米沢へ移封、加藤嘉明が入封、会津地震で倒壊した天守を再建、家光の庶弟保科正之が23万石で入場。この城は陸奥、会津の両方を睨む東北の要の地。
戊辰戦争では城に立て籠もり1ヶ月持ちこたえ落城はしなかったが少年まで戦争に駆り出し町の火事を落城と勘違いした白虎隊40名は可哀そう、しかし降伏式では責任者として城代家老西郷頼母は切腹せず家族は全員自刃。この戦争は殿様、筆頭家老がなぜか生き延びる。
平成23年3月に黒瓦から赤瓦へ葺き替え。雪も無く瓦は良く見えたが数年前とそんなにイメージは変わらなかった。
会津若松城、次の白河城も司令官や殿様の問題があり城にいくとワクワクしますがこの2つは配下の人が可愛そうであまり気分的に乗らないお城です。
鶴ヶ城は4年前大森いさ美寿司のバス旅行で東山温泉に泊まり城は前日に見たのですが夜からの大雪で太平洋側は通行止めで新潟経由で12時間かけて大森まで帰った思い出があります。トイレが大変だった。私のバス最長時間。
此方では伝統的な工芸品も多くありますが「五郎兵衛飴」は柔らかい飴にパラフィン?が付いた物で何処となく懐かしい物です。創業800年以上の老舗、義経、弁慶の平泉落ちの際の飴購入の借用書などもある。
通称 雨城、浦田城
構造 山城
天守 独立式望楼型2重3階
1979年RC造模擬天守
城主 上総武田、里見、大須賀、土 屋、黒田氏
遺構 土塁、空掘り、井戸
時間 9時~16時30分 無料
室町時代に上総武田氏によって築城とされる。戦国時代に里見氏にとって代わり現在地に築城、永禄時代に北条軍の侵攻に一時陥落もその後奪還。
杖が置いてあるのは安土城以来だと思いながら細い道を滑りそうになりながら一人登っていきます。途中の木々には木に名札が付いています。しかし途中からはやはり息切れして木どころではなくコートを脱いでヨタヨタですが今回は1ヶ所ですので前回よりは少しは楽でした。
本来天守閣は町から、登り口から見えるはずですが此処は雑木林で隠れ全く見えない珍しいお城です。お城はその地のシンボルで町の誇りのはずです。
通称 根古屋城
構造 山城
天守 望楼型3重4階1982年模擬天守
築城 里見義康(天正18年・1580)
遺構 曲輪、堀
時間 9時~16時45分
料金 300円 月曜休館
慶長19年(1614)里見氏改易により館山藩取りつぶしにより廃城、その後も麓の陣屋で城は出来なかった。現在の模擬天守は犬山城を模して昭和57年に再建し館山市立博物館の分館として里見八犬伝博物館として展示(南総里見八犬伝の絵草、浮世絵など)周辺は城山公園として日本庭園、野鳥園、里見八犬伝のモデルになった忠臣の墓などがある。
館山駅でお城へ行くにはと尋ねるとあの山の上ですと言う、歩いて行くには、えぇ歩くんですか。しょうがなくバスで城山公園に行きましたがバスの待ち時間30分。
何とか城山公園にそこからとことこ登り始めます。大した事がないと歩いていきますがしっかり着こんでいましたのでまた、背中がびしゃびしゃに足もとぼとぼと息も上がって何とか頂上へ。
お城の反対側は東京湾、見晴らしが素晴らしい。対岸の三浦半島が一望です。これじゃ家康が心配するのも納得。暫く景色を楽しんでいると天守閣の戸を閉める音が慌てて行くももう今日は閉館ですとつれない。確かに看板には16時30分までの入場となっています。今回も5時までと頭で勝手に思っていました。
しょうがなくまた来た道を降りバス停に行くと次までに40分待たなくてはならずタクシーもなく結局歩いてJR館山駅まで早足で25分位掛かりました。馬鹿にしていたこのお城結構な傾斜の道で息も上がり、城に入れず帰りも徒歩での駅まで歩きで余計疲れました。
夕食を兼ね駅前で海鮮丼を食べましたがお酒はパスしました。これでアルコールが入ると疲労で途中寝てしまう心配があります。降りそこなったらまた接続が悪く家にはかなり遅くなってしまう。
もう一つ残念はくじらの駅弁が売り切れになっていました。まぁ時間的に当然なんですが。
館山駅は大原駅に比べれば立派なスペイン風の建物で隣にはJR関東バスの駅もあり久しぶりにバスの駅舎を見ました。昔は国鉄バスの立派な駅が沢山ありました。(左側がJr館山駅舎)
通称 大滝城
構造 平山城
天守 不明
築城 真理谷信清(1521)
改修 本多忠勝、安部正次
城主 真理谷、里見、本多、阿部
時間 9時から16時30分
料金 200円 月曜休館
天正18年(1590)北条氏の小田原城が豊臣秀吉により落城、徳川家康は江戸城へ入場しその四天王の一人本多忠勝に安房の里見氏の勢力を抑える為10万石が与えられ入場。
天守最上階は残念ながら扉が閉まり風が入って来ません。眼下には少し開けた地ですが高い建物もなく、裏にはいすみ川が流れ真下には空掘りの遺構になっています。
城下には商い資料館、房総の小江戸のたたずまいを見せる酒蔵や大きな商家の屋敷などが点在しています。
天気も良く背中は汗ばんでいますので帰りはTシャツで駅まで帰りました。
通称 出世城
構造 平山城
天守 RC模擬城(資料館)地下1階3階建
城主 飯尾、松平、堀尾、井上、小野氏
遺構 石垣、曲輪
時間 午前8時30分から午後4時30分
料金 100円
この写真に竹が写りこめば松竹梅だったんですが。やはりお城には桜かなぁ。お城までは家康の羊歯印に沿って行ける様になっているようですが途中見つからず。(しだじるし)
永禄11年(1568)徳川家康により攻略され武田信玄の侵略に備え岡崎から移る。徳川家康は29歳から45歳まで過ごす。今川、武田、織田などの列強の中で三方原の戦いでの敗戦などを経験しながら生き延び、耐え難きを耐え力を付け天下盗りの夢をつかんだ城となっています。
家康が天下統一を果たし駿府に移り、城主は家康ゆかりの譜代大名が入城、5万石前後の城主で再任を含め25代の城主が誕生。老中5人、大阪城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人が登用され、そこから出世城と言われる。特に有名なのが老中水野忠邦。
城の形の資料館ですが天守地下の井戸、城にとっては井戸は重要ですが此処には10本があったようです。石垣は昔からの野面積みでごつごつした石が見ものです。
浜松駅から豊橋経由で岐阜へ向かいます。
楽器博物館HP
岐阜城
通称 稲葉山城
構造 山城
天守 復興天守
独立型望楼型3重4階(RC造)
築城主 二階堂行政
主な城主 斎藤、織田氏
遺構 曲輪、石垣、土塁
時間 9時30分~17時30分 夏場夜間営業あり
料金 200円
標高329Mの金華山の山頂にそびえ立つお城、京都に対して東の要所に位置して難攻不落の城と言われるが歴史上は7回も落城をしている。此処では美濃のマムシと言われた斎藤道三、娘濃を貰った織田信長、千成り瓢箪の羽柴秀吉、軍師竹中半兵衛、池田輝政などのビックネームが出てくる。その中でも駅前に金の信長像があるように織田信長の居城としてが有名なんでしょうか。
北条早雲と並ぶ戦国の下剋上大名の斎藤道三、僧侶から油売りそして戦国大名になったが息子義龍を義絶し長良川の戦いで敗れる。義父に応援の信長は間に合わず戦死する直前美濃を譲ると言う遺言書を貰う。何度か攻めるも竹中半兵衛などにより敗走。
永禄7年(1564)義龍の子龍興は1部の側近だけを寵愛する事に竹中半兵衛、安藤守就などが造反、後に城を龍興に返すという事態がある。後に半兵衛は秀吉に仕えることになる。
永禄10年やっと信長が稲葉山城の戦いで勝利し小牧城から移転する。古代中国の故事周王朝の文王が岐山によって天下を平定した事に因み城、町を「岐阜」と改める。
京より足利義昭を迎え天下布武の拠点とした。楽市楽座など新しい城下町づくりを行うが天正4年(1576)子の信忠にゆずり安土城へと移っていく。そして本能寺の変で親子共々天下統一まじかで亡くなっていきます。
金華山のふもとは現在公園になっていて織田信長居館跡があり現在も発掘作業が続いています。加藤栄一・東一記念美術館、ギフチョウの名和昆虫博物館、岐阜市歴史博物館があります。
このお城にはロープウェーで登る事ができますが、色々な登山ルートもあり40分位で登る事ができます。このお城の天守閣から見る大パノラマは素晴らしい眺めです。此処が京への東の要所だった事も一目で解ります。雪がぱらつき風も冷たく長くは居られませんでしたがそのお蔭で御嶽山や伊吹山、伊勢湾、桑名など良く見えます。





麓の岐阜歴史博物館も一見の価値あり、岐阜で刺された板垣退助の像、近くの正法寺には竹と紙で作った13Mの変わった大仏があります。
織田信長のお城としては清州城、小牧城、岐阜城、安土城と廻りました。やはり天下統一の野望から安土城の不思議な作りと本能寺の変後に焼失した信長集大成のお城、礎石だけでしたがロマンを感じる信長の城です。
眺望はこの岐阜城が一番良かったようにおもいます。まして低い山ですが寝不足、浜松城からお城めぐりでしたがその疲れもふっ飛ぶような眺めでした。
またロープウェー近くに眺望の良い展望レストランがあります。冷えた身体に香りの良いコーヒーを戴きました。
構造 山城
天守 復興天守
独立型望楼型3重4階(RC造)
築城主 二階堂行政
主な城主 斎藤、織田氏
遺構 曲輪、石垣、土塁
時間 9時30分~17時30分 夏場夜間営業あり
料金 200円
標高329Mの金華山の山頂にそびえ立つお城、京都に対して東の要所に位置して難攻不落の城と言われるが歴史上は7回も落城をしている。此処では美濃のマムシと言われた斎藤道三、娘濃を貰った織田信長、千成り瓢箪の羽柴秀吉、軍師竹中半兵衛、池田輝政などのビックネームが出てくる。その中でも駅前に金の信長像があるように織田信長の居城としてが有名なんでしょうか。
永禄7年(1564)義龍の子龍興は1部の側近だけを寵愛する事に竹中半兵衛、安藤守就などが造反、後に城を龍興に返すという事態がある。後に半兵衛は秀吉に仕えることになる。
永禄10年やっと信長が稲葉山城の戦いで勝利し小牧城から移転する。古代中国の故事周王朝の文王が岐山によって天下を平定した事に因み城、町を「岐阜」と改める。
京より足利義昭を迎え天下布武の拠点とした。楽市楽座など新しい城下町づくりを行うが天正4年(1576)子の信忠にゆずり安土城へと移っていく。そして本能寺の変で親子共々天下統一まじかで亡くなっていきます。
金華山のふもとは現在公園になっていて織田信長居館跡があり現在も発掘作業が続いています。加藤栄一・東一記念美術館、ギフチョウの名和昆虫博物館、岐阜市歴史博物館があります。
このお城にはロープウェーで登る事ができますが、色々な登山ルートもあり40分位で登る事ができます。このお城の天守閣から見る大パノラマは素晴らしい眺めです。此処が京への東の要所だった事も一目で解ります。雪がぱらつき風も冷たく長くは居られませんでしたがそのお蔭で御嶽山や伊吹山、伊勢湾、桑名など良く見えます。
眺望はこの岐阜城が一番良かったようにおもいます。まして低い山ですが寝不足、浜松城からお城めぐりでしたがその疲れもふっ飛ぶような眺めでした。
またロープウェー近くに眺望の良い展望レストランがあります。冷えた身体に香りの良いコーヒーを戴きました。
通称 安濃津城
構造 平城
天守 なし
築城 細野藤敦
改修 織田信包、藤堂高虎
城主 細野、織田、富田、藤堂氏
遺構 石垣、堀
開門 公園になっている
交通 近鉄津新町駅徒歩10分
平安時代より伊勢の国の中心地で北は安濃川、南は岩田川に囲まれた外堀になっていた。現在は内堀自体も狭くなって石垣も多くは残っていない。高虎らしさの高石垣はなく直線状の石垣がそうかなぁと思う程度です。今治城と同じ石垣の下には犬走りが少し見えます。
伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つという伊勢音頭のように城下町として栄えたようです。現在、築城400年祭りが此処でも行われています。やはり銅像があるように藤堂高虎が中心になっています。
この模擬三層櫓は元々なかった破風が付けられています。コンパクトな櫓です。天守台や残った石垣も整備がこれからなのでしょうか。お城公園として庭園だけで市民の憩いの場として終わってしまうのでしょうか。
帰りの電車の予定時間がまだあったので津では専修寺に寄るか帰りが遅くなるが桑名城も攻めようか考えましたが早く帰って風呂でも入ろうと予定より2時間早く帰宅になりました。
通称 白鳳城
構造 平山城
天守 模擬層塔型3層3階
城主 筒井定次、藤堂氏明治まで
遺構 石垣、堀、武具蔵
開門 9時から17時 500円
交通 伊賀鉄道上野市駅徒歩5分
上野盆地の中央に位置し北に服部川、南に久米川、西に木津川が流れ城と城下町を要塞化している。現在は築城400年祭で年末まで藤堂高虎祭りでもある。
1585年(天正13年)筒井定次によって築城、その後1611年(慶長16年)藤堂高虎によって大改修、しかし大阪の役が終わり主要な部分だけで後は中止となった。完成目近の5層の天守閣は暴風雨によって倒壊、以後天守は再建されなかった。現在の天守は川崎克氏の私財によって再建したもの。
筒井氏時代は大阪を守る城、高虎時代は攻める城と目的が全く逆になっています。高虎は大阪の役が終わって交通の要所の津城を本城にして上野城を支城にしています。一国一城令でも2つの城は存続を認められました。
天守の天井には復興を記念して有名な画家、書家、政治家の書が46枚飾ってあります。(横山大観、河合玉堂など)この復興には川崎克氏が私財を投じて出来たものです。
碁盤の目のような道の横町に入れば大正、昭和の10軒長屋やそのままの建物が至る所にあります。また、入交家の武家屋敷も現存し城下町としてこれだけ多くの建物があるのは初めてみました。
映画の撮影にも時代劇は無理でも大正、昭和ロマンで使えるのでは。早朝散歩では霧が町全体を覆って本当に忍者の町のようです。お城ではこの霧の中上から石垣を下に見ると足が震えました。
お城以外では松尾芭蕉の生誕地で生家、俳聖殿、記念館などゆかりの施設があります。お城内には藤堂高虎の有名な兜などの遺品と共に芭蕉の机も展示されています。また入りませんでしたが大きなだんじり会館もありだんじりも有名なのでしょうか。
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