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京急大森町付近の東海道を歩いていると山谷とか谷戸といった聞きなれない地名が出てきます。山谷は台東区の日雇い労働者の寄せ場「ドヤ街」が有名です。
台東区の山谷は諸説がありますが江戸時代にこの辺に3軒しか家がなく三家、三屋と呼ばれいつしか山谷になったと言われています。また此処は奥州街道、日光街道に沿った地域で江戸時代から木賃宿が集まる地域だったようです。
大森山谷は諏訪神社の由来では「山野」と称した原っぱで今の美原通り(北原、中原、南原)の三原に続く「三野」で東海道の発達とともに三原が美原に改称したのと同様に人が住みだすと山野が山谷になったと考えられるそうです。谷(たに)でなく人が集まる「や」になったようです。ここは今でもバス停に本宿という名称が残っています。品川、六郷の宿の間中の宿だったということでしょう。
東山谷(大森東二丁目)南山谷(大森西三丁目)北山谷(大森西二丁目)と三地区で構成されていたそうです。現在は住所表示もなく大森消防署山谷出張所、区立山谷公園だけのようです。京急も大森町駅と梅屋敷駅の間に大森山谷駅があった。
谷戸
鎌倉時代に幕府の家人が住んでいた事に起源があり家人を「やと」と称しその後谷戸の文字が当てはまれたようです。余りしっかりした文献がありません。現在は谷戸の交番、谷戸三輪神社などがあります。
本来の谷戸は丘陵地が浸食された谷を言うはずですがここには丘はありませんし谷でもありません。
山谷ドヤ街、貧乏谷戸と言葉の感じでは、あまり上品な感じではありませんからこの名前が風化していったんでしょうか。
元は旧東海道梅屋敷寄りの道端にあり江戸後期東海道の通行人の目印として富士講の人々が寄進した常夜灯。
大正大震災で崩落し三輪神社に移築されたが昭和61年に境内改築のため大田区へ寄付された。大田区は火袋、竿石など欠落したものを復元し三輪公園に移築しています。(画面で白い部分が復元されたところ)
元々は富士講の人の寄進で富士山にサル3匹がかかれているのは庚申の年に富士山が出来た事によるものらしい。台石には多くの富士講の人の名が刻まれています。本来有ったところにあれば良いのでしょうが通行の邪魔になり本来と違う場所に設置されています。
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