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湯の町森が崎(森ヶ崎)
明治中期から戦前まで森が崎周辺は湯の町として大小の旅館や料亭などが立ち並び繁栄をした歓楽街だった。今は東京労災病院、東京都の浄水場などでその面影は全くない。
大田の史話2によると明治27年地元の田中新造がこの地を開発し灌漑用井戸を掘ったところ偶然鉱泉を発見、森が崎宣伝案内には、含鉄アルカリ性食塩泉でラジウムヘマナチオンの放射性成分もあり増富鉱泉に次ぎ効能あらたかで諸病に効くという。また「湾頭を渡りくる潮風はあたかも吸入器を常用するに等しく散歩一巡すれば神気頓に爽快」と現在の温泉保養地の効能を掲げています。
交通は京浜電車で大森山谷、梅屋敷で下車、十五丁徒歩か人力車で50銭だそうです。
明治37年には旅館兼割烹店は23館、養生、盛平、平盛、富士川、大金など、現在は森が崎バス停前で場所は違いますが盛平はそば屋に大金はガソリンスタンドになっています。盛平蕎麦屋には店内に昔の旅館時代の写真が飾ってあります。
当時は旅館以外に温泉病院もあり今で言うスーパー的なものもあり長期保養も出来、春は貝を拾い、夏は潮浴、秋は魚を釣り、冬は籠りて雪を賞すると。そして競馬場もドイツの温泉保養地バーデン・バーデンみたいなもので東京から近く多くの文人墨客も訪れています。
人が多く集まれば当然宴会となり芸者置き屋も整い一大歓楽街になっていく。田圃は掘り返されその地には大きな釣り堀ができ、競馬場もできひなびた地は大人の一大レジャーランド化となっていきました。
しかし第二次大戦時は旅館は軍事工場の寮となり衰退していきました。ここで面白いのは昔の宿帳が残っています。
大正12年12月27日から29日
顔丸目口並色青白、中肉中背、頭五分刈り、キモノ銘仙ハオリ
平民 著述業 堺利彦 52歳
社会主義運動の先覚者で合流者は日本共産党の徳田球一
府下大森馬込村 顔細面目口並、中肉中背、色浅黒、髪オールバック、洋服、著述業 藤浦洸 三十一歳
顔丸目口並 中肉、背五尺五寸位、色浅黒、頭ハイカラ、洋服
尾崎士郎は昭和8年5月9日午後四時から10月6日午後七時までの長期滞在している。ここで人生劇場(青春篇)の後半部を書いたと言われている。
共産党員から馬込文士村の多くの人々と色々な人が訪れてします。それにしても宿帳の書き方は法律で決まっていたんでしょうが旅館経験者としては興味深い
真ん中が鉱泉の碑
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