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京急梅屋敷下車ー①大林寺(大森中2-7-19)ー②密乗院(大森中2-17-5)ー③三輪神社(大森中3-17-15)ー④梅屋敷公園(蒲田3-25-6)-⑤椿神社(蒲田2-20-11)-⑥円頓寺(蒲田2-19-15)-⑦薭田神社(蒲田3-2-10)-⑧栄林寺(蒲田3-1-16)-⑨妙安寺(蒲田4-18-15)⑩蒲田八幡神社(蒲田4-4-18)-京急蒲田駅ないしJR蒲田駅
梅屋敷と麦わら細工
品川宿と六郷宿の間に梅屋敷と言われるお店がありました。当初は道中の常備薬としての「和中散」を販売したり茶店的なものでした。宝永年間(1704~1710)数軒あった1軒山本久三郎は和中散の本舗が近江の国の梅木村であった関係で庭に梅の木を植え酒肴も楽しめる茶屋を開業しました。
広重 蒲田村 梅屋敷
旧和中散本舗(滋賀)http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=1706
それがいつしか梅屋敷と呼ばれ大盛況に広さも3000坪に及んだそうです。12代将軍家慶が鷹狩りの折、14代家茂が上洛の際など休憩をしています。
幕末には高杉晋作、佐久間象山、三条実朝、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などが会合を開き、特に高杉晋作など攘夷派の志士たちも此処で横浜異人館焼打ち計画の密議があり山内容堂、毛利元嗣などが慰留をした「梅屋敷事件」などが有名です。
明治維新後は明治天皇始め大正天皇、皇族の方のご来遊もあり特に明治天皇は9度の行幸、梅の木のお手植えもされていました。そして此処は聖跡梅屋敷公園となっています。
大正7年京浜国道の拡幅工事により東側が大きくさかれ西側は京浜電車の開通により大きくさかれ今は当時の面影は全くありません。現在狭い庭内には復元ですが里程標(距 日本橋3里18丁 蒲田村山本屋)山本家の梅の句碑、狂歌堂真顔の歌碑などがあります。弓道場、土俵もあります。
東海道を往来した旅人、文人墨客に親しまれこの梅園は広重はじめ多くの絵師に描かれています。木戸孝允、伊藤博文が二人で此処で新年会をした際合作の一幅のの中にも書かれたそうです。
街道のお土産として大森名産として麦わら細工があります。茶店で東海道の手ごろな土産物として販売されていました。麦わら細工は、梅屋敷東口にあります大林寺の12世日好和尚が漁間の稼ぎ、村民の窮乏を救う一助として作らせたようです。
当初は小箱や小さな屏風の表面に色を付けた麦わらを切り張りしたものでした。後世には虎、熊、兎などの動物、でんでん太鼓、纏いなど色々な形に編んで行く高度な細工物になり大変な人気になったようです。
その他に梅を使った梅干し、梅びしおの販売、当時の江戸の梅干しの大半はこの地域のものだったようです。
梅びしおの作り方と料理応用
麦わら細工は明治に入り雑色村の川田谷五郎と言う人が横浜で米国人のかぶっている麦わら帽子をこの麦わら細工の手法により「麦稈真田」(ばっかんさなだ)としてアメリカ人の帽子として輸出されるようになり生糸と並んで輸出品になり細工職人が帽子の方へ行き手仕事職人は居なくなってしまいました。
麦稈真田も大森から手間賃の安い地方に移っていき檜を薄く経木にした経木真田、麻真田と材料も変わっていき麦わら細工職人は一人もいなくなりました。結局大田区からは麦わら細工、麦稈真田もなくなりました。
大田区郷土博物館より
大田区の郷土玩具
矢守(矢口新田神社)
鉄砲狐(穴守稲荷神社)
お会式万灯、纏い(池上本門寺)
とんびたこ(六郷)
なくなった玩具
麦わら細工、河豚提灯、弓河豚(穴守稲荷神社)
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