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見たい映画は関係ないですが時間つぶし的に評論家の意見に乗ったり題名だけで見たりしてガッカリする事があります。ロードショーは月末か月初めの大体土曜日に始まります。
そこでまだ生き延びている映画、評論家以外でも話題になっている映画を分からない時は見れるのが勝手に決めた第三週です。1ヶ月も経たず1日1回しかやっていないのは勝手に人気がないと判断します。勿論個人的に見れば面白い映画かも知れませんが。
かみさんは月に数本は見ているようで予告編も見ているので詳しく、昨日見に行くのに何が良いか聞いたら、この映画は貴方には向かない、今は猿の惑星やっているとの事。それじゃと出かけたが1時間待たなくてはならず「ツレがうつになりまして」がすぐやるのでそれを見ました。
内容は兎も角、ウツの主人公の旦那役の堺雅人が友人のH氏に似てて何となく其方の方を考えながら見てしまいました。H氏は上場会社の専務でウツになるような性格でもないですが何となくストーリーと重ねてしまいました。
さてかみさん推薦の猿の惑星は機会があれば時間つぶしに見ようと思っています。これから見ようと思う映画は10月29日からの「ステキな金縛り」三谷映画。11月11日からの「マネーボール」、12月3日からの「RAILWAYS愛を伝えられない大人たちへ」10日からの「源氏物語 千年の謎」は評論に関係なく見ようと思っている映画です。
年間通して月に1本から2本のペースです。失礼な言い方ですが時間つぶしには最高です。
通称 白鳳城
構造 平山城
天守 模擬層塔型3層3階
城主 筒井定次、藤堂氏明治まで
遺構 石垣、堀、武具蔵
開門 9時から17時 500円
交通 伊賀鉄道上野市駅徒歩5分
上野盆地の中央に位置し北に服部川、南に久米川、西に木津川が流れ城と城下町を要塞化している。現在は築城400年祭で年末まで藤堂高虎祭りでもある。
1585年(天正13年)筒井定次によって築城、その後1611年(慶長16年)藤堂高虎によって大改修、しかし大阪の役が終わり主要な部分だけで後は中止となった。完成目近の5層の天守閣は暴風雨によって倒壊、以後天守は再建されなかった。現在の天守は川崎克氏の私財によって再建したもの。
筒井氏時代は大阪を守る城、高虎時代は攻める城と目的が全く逆になっています。高虎は大阪の役が終わって交通の要所の津城を本城にして上野城を支城にしています。一国一城令でも2つの城は存続を認められました。
天守の天井には復興を記念して有名な画家、書家、政治家の書が46枚飾ってあります。(横山大観、河合玉堂など)この復興には川崎克氏が私財を投じて出来たものです。
碁盤の目のような道の横町に入れば大正、昭和の10軒長屋やそのままの建物が至る所にあります。また、入交家の武家屋敷も現存し城下町としてこれだけ多くの建物があるのは初めてみました。
映画の撮影にも時代劇は無理でも大正、昭和ロマンで使えるのでは。早朝散歩では霧が町全体を覆って本当に忍者の町のようです。お城ではこの霧の中上から石垣を下に見ると足が震えました。
お城以外では松尾芭蕉の生誕地で生家、俳聖殿、記念館などゆかりの施設があります。お城内には藤堂高虎の有名な兜などの遺品と共に芭蕉の机も展示されています。また入りませんでしたが大きなだんじり会館もありだんじりも有名なのでしょうか。
かけてみると拾得物の届け入れが近鉄津新町駅から有ったとの事です。「中身は何ですか。」「名刺入れ」です。との事です。まだ、名刺入れ?旅行に名刺入れは持っていかないがと思っていると「ホテルの名前が書いてある黒い名刺入れです」
やっと分かりました確かに名刺しか入っていないホテルタグでした。実は旅行先に自分の身分が住所が分かるものを持っていないので何かあったらとバックにこのタグを付けていたのです。名刺は2~3枚だと思うのですが。
わざわざ近鉄の方が届けてくれたようです。このタグは前に行ったマラッカ、マレーシアのルネッサンスのホテルの支配人から戴いたものですがもう海外も行く気もないしましてルネッサンスは泊まらないだろうしと思っていました。
このようにおっちょこちょいなので身分証明やカード類は旅行には持って出ないのです。今回も手続きは津警察の指示通り先ほど郵送しましたがやってもらって言うのはいけないですが面倒なものです。
とんでもないところから電話が入りましたがまぁ身に覚えのあることも無く、ただ何だろうということでした。体が無くても身分を証明してくれた。此れからもこのタグはひもの部分を直し縁起が良いから使うことにします。
近鉄津新町駅の方ありがとうございました。津警察の方ご面倒をお掛けしました。
亀山城
通称 粉蝶城
構造 平山城
天守 現在なし
築城 関実忠
城主 関、岡本、本多、石川氏他
遺構 多門櫓、石垣、堀
(多門櫓平成24年3月に補修完成予定)
開門 いつでも、城址公園
交通 JR紀勢本線亀山駅徒歩10分(坂道)
1265年(文永2年)関実忠によって築城、江戸時代は東海道の要所の一つで将軍が京都へ行く時此処で1泊して次の難所の鈴鹿峠を越えて膳所城か大津の宿で1泊して京都へ向かう重要なコースでもありこの藩主は二の丸御殿で住んでいた。広重の東海道五十三次の絵にも右側にお城が描かれています。
昔は同じ名前の藩があり紛らわしかった。嘘のような話で丹波の亀山城の天守を解体するようにの命を間違え伊勢のこの亀山城の天守を解体してしまった。
現在唯一残る多門櫓は高い石垣の上にあります。下の小学校から見れば見上げるような高さです。これは本来あった天守の場所に構築されたようです。敵の防御として横矢枡形になっています。横矢枡形は字の如く横合いから鉄砲や矢を撃てるように枡形に飛び出しています。
亀山城は基本的には土塁で作られています。櫓などだけに石垣が使われているだけのようです。石垣は野面積みです。右の写真の上部のシートが多聞櫓。
明治に入り藩知事を任命にあたり紛らわしい名前は変更されました。丹波の亀山は亀岡に紀伊田辺と丹後の田辺は丹後が舞鶴と云ったように整理されました。
たった一つの多門櫓を見に行きました。JR駅ではわざわざ案内の紙まで戴いたのですが現在修理中で中が見えません。これしかないのにちょっと言ってくれればがっかりしなかったのに。暑い日で非常に残念でした。広重の絵でお城を想像するしかありません。絵の右上がお城。(浮世絵はウィキペディアより)
人はそれぞれ性格が違いますが今回ではJRの(亀山、郡山)職員より近鉄や伊賀鉄道の人の説明がたまたまかも知れませんが親切でした。多門櫓は平成24年3月に補修が終わるようです。
通称 雁陣之城
構造 平山城
天守 なし
築城主 筒井順慶
主城主 筒井、豊臣、水野、柳沢氏など23代
遺構 石垣、堀
再建 大手向櫓、東櫓、大手門
交通 近鉄郡山駅徒歩5分 無料
織田信長の後ろ盾で筒井順慶が大和を統一した。
この郡山には筒井城と郡山城があったが天正8年の織田信長の一国一城令により筒井城は破却、翌年に明智光秀の普請目付で大規模な城郭の建設が始まる。天正12年(1584)に筒井順慶死去により養子の定次は秀吉の命により伊賀上野城に転封。
翌年豊臣秀長が大和の国、和泉国、紀伊国三国100万石で入城。大改修が始まる。しかし天正19年秀長死去、その養子秀保も急死して断絶、100万石のお城は終焉する。
関ヶ原後郡山城の多くの建物は徳川伏見城へ移築され、城主は10万石大名が入れ替わっていく。江戸後半の甲府から来た柳沢吉保、吉里親子により養蚕の持ち込みによる奨励、趣味の金魚も運び金魚養殖が盛んになる。維新後は職を失った武士の仕事にもなり、現在でも日本最大の金魚の産地になっています。
秀長の時代、奈良には石垣になる良質の石が少なく、奈良一体から強制提供させ、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども石垣の石にしたようです。
100万石の秀長入城には郡山を奈良一の城下町にして興福寺、東大寺を睨むこの場所が適地とされていたかのようです。天守台から追手向櫓、東櫓、法印曲輪跡などが見えます。
誰もいない天守台はロマンを感じるより寂しさの方が強かった。それはこの下にお地蔵様が埋もれたりしているのを見た後だからだろうか。とても竹田の岡城のような感じにはなれなかった。
通称 虎伏山
構造 平山城
天守 復元連立式層塔型3重3階
築城 豊臣秀長
城主 豊臣氏、浅野氏、徳川氏
遺構 門、塀、石垣、堀、庭園
開門 9時~17時30分 入城料400円
交通 JR阪和線和歌山バス市役所前下車
このお城は、天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州を平定し弟の秀長に築城させた。秀長は隣の大和郡山に居城し桑山重晴を城代とし置く。その後、慶長5年関ヶ原の戦いの功により浅野幸長が入城、元和5年(1619)家康の第10子徳川頼宣が55万5千石で入城し、此処から水戸、尾張と並ぶ御三家紀伊家が始まる。8代将軍吉宗も此処の城主だった。
頼宣は城の大改修、城下町の拡大などを大々的に始め幕府より謀反の嫌疑がかかる。そのため縮小した。このお城の特徴の一つとして石垣が時代と共に様々な積み方をしている事も一つです。面白いのは浅野の時代だけ石垣に様々な刻印されたものがあります。裏坂から本丸へ上がるところで良く見られます。
お城は漢字で土に成るですから当初は土塁で囲い空掘などで防御をしていましたが信長の時代から鉄砲が有力な武器となり石垣で囲うようになりました。
石垣は防御線ですから外には角度をつけ中は緩やかな角度にしながら見た目もきれいな石積みをしなくてはなりませんし、時間で雨水が溜まりそれを吐き出す水はけの良い石垣積みの技術が必要です。(写真は新しい石垣積み)
お城は街の何処からも見えそのシンボルにならなくてはなりません。和歌山城は、木々が伸びすぎて見える所と見えないところがあります。夜ライトアップしているので泊まったホテルからはとてもきれいでした。
しかし、7時過ぎに市役所前でバスを降りると周りは真っ暗、お城は何処だ、泊まるホテルは何処だと探し廻りました。虎伏山という小山にお城はあります。
今回は表坂、裏坂がある事を知らず裏坂から攻めました。裏坂は表坂に比べればきつい坂です。でも井戸があり石垣の刻印なども裏坂から見えます。私の人生と同じ裏から攻め入ったのが正解だったのかも。(苦笑)攻め入る方は行きを表から帰りに裏坂をお勧めします。
この日も暑く天守からの風は気持ちがよく紀ノ川も良く見えます。
和歌山はラーメンのお店が沢山あるようですが夜着いて朝、お城攻め入りですから残念ながら食べずに終わりました。和歌山の路面電車も大分前に廃止されたようです。また何十人と亡くなられた被害の大きい台風十二号の影響で勝浦辺りはまだ復旧されてなくバスでの乗り継ぎになっているようで台風被害の義捐金募集もやっているようです。
最近持ち歩いている散歩の時や短時間のお出かけに持っていくバックです。これは長崎のネツ友aibikiさんから戴いたものです。最初はかみさんに戴いたものとして今まで使っているバックでした。
夏になるとビニールコーティングしたところが汗ばんだ肌に触れ気持ちよくないのでこのバックを使うようになりました。写真は横向きになっています。なぜか私の性格を表しているようです。
中身は、携帯用傘、ティシュ、半分程度のタオル、石鹸、小銭入れ、ビニール袋には郵便局の通帳、虫眼鏡、簡易老眼鏡、目薬、ボールペン、クリップ、テレホンカード、携帯充電器、FRISK(黒)、図書カード、電車の磁気カードスイカなどです。その他に美術館などの出品リストなどを入れるA4ファイル、文庫本が入ります。
これで大体間に合います。一寸した御菓子の買い物もこのバックに収まり、とても軽いので持ち運びには最高です。最初は地味かなぁと思っていましたが今は自分と共にいる仲間になっています。
直ぐ仕舞い忘れるのでこのバックの中にとりあえず外出先では入れていきます。なんでも入りますから非常に便利に使っています。昨日もこれで宇都宮でした。aibikiさんありがとうございます。重宝しています。
そして戦国の世であり、何度も浪人をしながら最後は外様でありながら家康の枕元、相談相手にまでなった藤堂高虎を忘れないうちに書いておきます。細かい事はググレば出ますので此処では違う見方で藤堂高虎を書きます。築城の名手だけでなく戦国の世に何度も主君を変えるという生き方の人です。
築城の名手と言うと一番に黒田如水(黒田官兵衛孝高)秀吉の軍師、キリシタン大名で有名です。この人の縄張りは、大阪城、姫路城、妻鹿城(めが)、山崎城、中津城、高松城、広島城、名護屋城、福岡城、梁山(ヤンサン韓国)など。多くのお城に絡み、特徴としては、実践用でありながら無駄の無い必要以上の高垣を築かない。
二番目がこの黒田如水を親父オヤジと慕っていた加藤清正、秀吉の子飼いの名将、そんなに多くは築城をしていないのですが熊本城ひとつで名手の地位を得ています。勿論天下普請での割り縄張りなど多くの城に絡んでいます。熊本城、八代城、韓国の機張キジャン、西生浦ソセンボなど熊本城のように地盤の悪い地への独特な曲線的な高石垣。
最初は浅井長政に仕える。織田信長に小谷城で浅井長政が敗れると浅井家の旧臣に何人か使える。何回か浪人。
信長の甥信澄の家臣になる。また浪人、その後秀吉の弟秀長に使え3000石。中国攻め、賤ヶ岳の戦い、小田原攻め等の功績により1万石の大名になる。猿岡山城、和歌山城の築城に普請奉行に、天正15年の九州の役での功により2万石。
天正19年秀長が死去すると甥の秀保に仕える。後に秀保死去により高野山へ出家。しかし、秀吉にその将才を惜しまれ還俗、5万石を追加され7万石で宇和島の大名となる。
慶長の役、朝鮮との海戦の功により8万石となる。
慶長3年秀吉死去から家康へ急接近、家康の会津征伐に参戦、織田秀信の岐阜城攻め、関が原本戦、西軍の将への東軍への寝返り作戦等により宇和島、今治20万石へ加増。
徳川家の重臣として江戸城改築、津、伊勢一国22万石(上野城、津城)外様大名でありながら譜代大名格になる。大阪冬の陣では長宗我部を破る功績に32万石に加増。
家康没後2代秀忠に仕えながら上野城、津城の城下町建設など藩政の確立に努める。その間、清正亡き後の熊本藩、高松藩、会津藩など幕府の命により後見人になる。75歳の生涯を閉じる。
津には高虎の高山神社、上野の寛永寺に墓がある。
長々と書きましたがこの生き方、戦国時代は主君と共に戦い命を預けその主君に仕えるのが訓とされた時代ですがこの人は此処だけで7回以上も主君を変えています。今の時代のサラリーマンはどうだか分かりませんが家康が難しい相手には「一の手は高虎、二の手は井伊直孝」と言わしめています。
団塊の世代の私には好きな生き方です。私達も生まれた時から競争社会でした。人数が多いのですから学生、就職、社会人といつでも競争です。高虎は特技として城の縄張り、築城があり私には無かった。それでも会社の大きなプロジェクトに何度も参戦できた事が今の財産になっていると思っています。
今の会社は何時合併があったり社長が変わったり、倒産したり、終身雇用崩壊、将来の不安もあり中々冒険もしづらく当たらず触らずになるんでしょうが。
是非とも果敢に挑戦もしてほしいと思っています。その時の眉間の傷は将来きっと役に立つ時が来ます。それには若い時から地力を付けといて欲しい。何でも良いからこの分野は負けないものを。将来への基本的考え、それに対する戦略が何時の時代でも大切だと思います。いつも見に来てくれる君に期待しています。
そして最後に高虎の城及び普請・奉行役のお城
自身の城 宇和島、大洲、甘崎、今治、津、伊賀上野
普請 赤木、和歌山、大和郡山、聚楽第、豊臣伏見、膳所、徳川伏見、二条、丹波篠山、丹波亀山、江戸、駿府、名古屋、淀、徳川大阪、日光東照宮、寛永寺その他、韓国でも築城、高虎の特徴は高い石垣、攻めも得意ですが守りもしっかりしています。
太字が今回制覇したお城です。5城廻りましたがそのうち4城ですので最初に藤堂高虎を書いておきました。そして昨日は東照宮にも参拝しました。
和歌山城 伊賀上野城 津城櫓 郡山城櫓
7時58分上野発快速宇都宮行き、がらがらで9時半には宇都宮に到着。まだ店も開いていないので宇都宮から日光線で「そうだ日光に行こう」そりゃぁケッコウと独り言で行く事にしました。
JRでの日光は行ったことがありませんが東武駅の傍にあるのは知っていますのでたった6駅なのに案の定接続も悪く、1時間に1本、45分も掛かりました。電車は単線でホームも此処だけ世界遺産用だか茶色と金で装飾されています。車両も茶色、金でヘッドマークまで付いています。しかし、クモハ107の古いタイプ。
お客は外人のファミリー、アベック、日本人は途中下車と時期もまだ紅葉ではないので少ない。しかし、ゆっくり出来ました。
バスがあれば途中からでも乗ろうかと思っていましたが、停留所で待っていないものですからバスは行ってしまいます。結局、往復歩きました。そしたら帰りは膝は何ともなくなっていました。
此処は将軍が日光参拝時に泊まったり、本多正純の時の将軍暗殺計画?、土方歳三らの旧幕府軍と新政府軍の戦い(お城炎上)など色々あるはずなんですが。
今日は余り遅くならないように宇都宮で餃子を3種類戴きました。その為に日光ではゆばのお蕎麦で軽くしていたのですが、ビールに3種類18個でお腹が一杯となりました。帰りは通勤時間前に上野に着き、雨にも当たらずちょっと歩きすぎて汗ばむ一日でした。
今日の成果
今日はお城制覇と言えず、郵便局は日光で2、宇都宮で1で3局。
おみやはゆば、冷凍餃子。きっぷなし。歩数2万ちょっと。
昨日行ってまいりました伊賀上野のかたやきです。タイトルは日本一かたいおせんべい。「元祖山本のかたやき」伊賀は忍者の里ですから忍者の携帯食糧のようです。もの凄く硬くこのままでは食べられません。木づちが付いています。また同じ煎餅で直角に当てると割れ、細かく割って暫く口に含んでいると噛み砕け易くなります。
このお店の説明書には「その昔、伊賀の忍者が、敵方の屋敷に忍び込み、屋根裏や床下、物置などに隠れ、敵情を視察し、時には攻撃の機を待つ時、かさが少なく、かつ滋養にとむ「かたやき」を食糧として携帯した。当時忍者は刀の鍔や柱の基礎石等に打ち付けて割ってたべたものです。
今では「かたやき」は伊賀の名物のうち第一番目に数えられるもので歴史の古い珍菓となっています。類似品が多数ありお求めの時は元祖山本のかたやきとご指名ください。と書かれています。
我が家は硬いせんべいは一家皆好きです。私は上の歯が煎餅で2本かけています。その位好きなので買ってきたら、かみさんも大阪で購入していました。私のはそのお店で購入、中に木づちも入っています。
黄色がかみさんが購入してきた「かた焼き」いっぱい入っています。それで1000円、私のは右がバラの3枚入りで315円、木づち入り6枚入り630円、厚さも硬さも山本の方が勝っています。
ここまで硬いと、もうどちらでもと言う感じです。黄色の割り方のイラストは山本のイラストと全く同じ、販売会社も賞味期限も何も書いてありません。かたやきとかた焼の違いくらいですがパッケージは山本もかた焼で説明書とパッケージが統一されていません。
小麦粉と砂糖くらいですから昔のお菓子と思えば。ただ山本は創業寛永5年です。お店も伊賀の銀座通りにあります。これを買うために夜7時頃行くも朝8時半に行くも閉まっていて城からの帰りに伊賀鉄道の乗車時間を気にしながら3度目の訪問で購入しました。
これをせんべいと呼ぶのか?でも硬い。咽喉に入る頃口には甘さが広がる。青海苔以外にゴマなどもありました。
山本HP
http://www.katayaki.co.jp/katayaki/index.htm
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