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和歌山城
通称 虎伏山
構造 平山城
天守 復元連立式層塔型3重3階
築城 豊臣秀長
城主 豊臣氏、浅野氏、徳川氏
遺構 門、塀、石垣、堀、庭園
開門 9時~17時30分 入城料400円
交通 JR阪和線和歌山バス市役所前下車
このお城は、天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州を平定し弟の秀長に築城させた。秀長は隣の大和郡山に居城し桑山重晴を城代とし置く。その後、慶長5年関ヶ原の戦いの功により浅野幸長が入城、元和5年(1619)家康の第10子徳川頼宣が55万5千石で入城し、此処から水戸、尾張と並ぶ御三家紀伊家が始まる。8代将軍吉宗も此処の城主だった。
頼宣は城の大改修、城下町の拡大などを大々的に始め幕府より謀反の嫌疑がかかる。そのため縮小した。このお城の特徴の一つとして石垣が時代と共に様々な積み方をしている事も一つです。面白いのは浅野の時代だけ石垣に様々な刻印されたものがあります。裏坂から本丸へ上がるところで良く見られます。
藤堂高虎は築城の名手ですが特徴としては石垣です。大体防御として、とてつもない高石垣です。このお城も紀の川、和歌川によって防御されていますが山の上だけでなく麓から石垣が積まれ防御態勢が取られています。
お城は漢字で土に成るですから当初は土塁で囲い空掘などで防御をしていましたが信長の時代から鉄砲が有力な武器となり石垣で囲うようになりました。
積み方には古いタイプが「野面積み」で様々な石を組み合わせて積んでいく方法です。歴史のあるお城はこの方法が一般的です。「打ち込みはぎ」と云う方法は石を削って平らな面を出来るだけ作り隙間を少なくして行く方法で隙間には小さな石を入れて行きます。「切り込みはぎ」は成形した大きな石を隙間なく積み上げる方法です。
どの方法も高さが同じ位の石を積むと横にラインがあるように見えるようになりこれを「布つみ」とも言います。一番難しいのは隅です。長方体に加工した石を縦、横と交互に積み上げて行きます。(算木積み)変わったのでは彦根城のように濠には石積みしその上に土塁を乗せまた石垣を組んでいます。
石垣は防御線ですから外には角度をつけ中は緩やかな角度にしながら見た目もきれいな石積みをしなくてはなりませんし、時間で雨水が溜まりそれを吐き出す水はけの良い石垣積みの技術が必要です。(写真は新しい石垣積み)
お城は街の何処からも見えそのシンボルにならなくてはなりません。和歌山城は、木々が伸びすぎて見える所と見えないところがあります。夜ライトアップしているので泊まったホテルからはとてもきれいでした。
しかし、7時過ぎに市役所前でバスを降りると周りは真っ暗、お城は何処だ、泊まるホテルは何処だと探し廻りました。虎伏山という小山にお城はあります。
明治の廃城令により殆どの城は壊され、そこが今は多くが官庁になってたり学校になっています。夜になれば人がいません。真っ暗です。折角の観光のシンボルで復元したのですがこれでは意味がない所が和歌山に限らず多々あります。
今回は表坂、裏坂がある事を知らず裏坂から攻めました。裏坂は表坂に比べればきつい坂です。でも井戸があり石垣の刻印なども裏坂から見えます。私の人生と同じ裏から攻め入ったのが正解だったのかも。(苦笑)攻め入る方は行きを表から帰りに裏坂をお勧めします。
この日も暑く天守からの風は気持ちがよく紀ノ川も良く見えます。
和歌山はラーメンのお店が沢山あるようですが夜着いて朝、お城攻め入りですから残念ながら食べずに終わりました。和歌山の路面電車も大分前に廃止されたようです。また何十人と亡くなられた被害の大きい台風十二号の影響で勝浦辺りはまだ復旧されてなくバスでの乗り継ぎになっているようで台風被害の義捐金募集もやっているようです。
通称 虎伏山
構造 平山城
天守 復元連立式層塔型3重3階
築城 豊臣秀長
城主 豊臣氏、浅野氏、徳川氏
遺構 門、塀、石垣、堀、庭園
開門 9時~17時30分 入城料400円
交通 JR阪和線和歌山バス市役所前下車
このお城は、天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州を平定し弟の秀長に築城させた。秀長は隣の大和郡山に居城し桑山重晴を城代とし置く。その後、慶長5年関ヶ原の戦いの功により浅野幸長が入城、元和5年(1619)家康の第10子徳川頼宣が55万5千石で入城し、此処から水戸、尾張と並ぶ御三家紀伊家が始まる。8代将軍吉宗も此処の城主だった。
頼宣は城の大改修、城下町の拡大などを大々的に始め幕府より謀反の嫌疑がかかる。そのため縮小した。このお城の特徴の一つとして石垣が時代と共に様々な積み方をしている事も一つです。面白いのは浅野の時代だけ石垣に様々な刻印されたものがあります。裏坂から本丸へ上がるところで良く見られます。
藤堂高虎は築城の名手ですが特徴としては石垣です。大体防御として、とてつもない高石垣です。このお城も紀の川、和歌川によって防御されていますが山の上だけでなく麓から石垣が積まれ防御態勢が取られています。
お城は漢字で土に成るですから当初は土塁で囲い空掘などで防御をしていましたが信長の時代から鉄砲が有力な武器となり石垣で囲うようになりました。
積み方には古いタイプが「野面積み」で様々な石を組み合わせて積んでいく方法です。歴史のあるお城はこの方法が一般的です。「打ち込みはぎ」と云う方法は石を削って平らな面を出来るだけ作り隙間を少なくして行く方法で隙間には小さな石を入れて行きます。「切り込みはぎ」は成形した大きな石を隙間なく積み上げる方法です。
どの方法も高さが同じ位の石を積むと横にラインがあるように見えるようになりこれを「布つみ」とも言います。一番難しいのは隅です。長方体に加工した石を縦、横と交互に積み上げて行きます。(算木積み)変わったのでは彦根城のように濠には石積みしその上に土塁を乗せまた石垣を組んでいます。
石垣は防御線ですから外には角度をつけ中は緩やかな角度にしながら見た目もきれいな石積みをしなくてはなりませんし、時間で雨水が溜まりそれを吐き出す水はけの良い石垣積みの技術が必要です。(写真は新しい石垣積み)
お城は街の何処からも見えそのシンボルにならなくてはなりません。和歌山城は、木々が伸びすぎて見える所と見えないところがあります。夜ライトアップしているので泊まったホテルからはとてもきれいでした。
しかし、7時過ぎに市役所前でバスを降りると周りは真っ暗、お城は何処だ、泊まるホテルは何処だと探し廻りました。虎伏山という小山にお城はあります。
明治の廃城令により殆どの城は壊され、そこが今は多くが官庁になってたり学校になっています。夜になれば人がいません。真っ暗です。折角の観光のシンボルで復元したのですがこれでは意味がない所が和歌山に限らず多々あります。
今回は表坂、裏坂がある事を知らず裏坂から攻めました。裏坂は表坂に比べればきつい坂です。でも井戸があり石垣の刻印なども裏坂から見えます。私の人生と同じ裏から攻め入ったのが正解だったのかも。(苦笑)攻め入る方は行きを表から帰りに裏坂をお勧めします。
この日も暑く天守からの風は気持ちがよく紀ノ川も良く見えます。
和歌山はラーメンのお店が沢山あるようですが夜着いて朝、お城攻め入りですから残念ながら食べずに終わりました。和歌山の路面電車も大分前に廃止されたようです。また何十人と亡くなられた被害の大きい台風十二号の影響で勝浦辺りはまだ復旧されてなくバスでの乗り継ぎになっているようで台風被害の義捐金募集もやっているようです。
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