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品川宿界隈には、寺社がたくさんありますがその中で筆塚があります。今、私が分かっているのは2つですがこれだけ多く寺社がありますのでもっとあると思います。
海雲寺 曹洞宗 品川区南品川3-5-21
千躰荒神で有名なお寺さんです。荒神様は台所で一番大切な火、水を守る神様です。台所に祀ると一切の災難を除いて衣食住に不自由しないとされています。
毎月1日、15日、28日が御縁日です。大祭は3月27日、28日と11月の27日、28日です。物凄く多くの方が見えます。お参りの後は真っすぐ帰らないといけないとされています。
彫刻が施された立派な鐘楼、平蔵地蔵、烏琵沙摩明王(大明王),千躰荒神堂には素晴らしい奉納扁額などがあります。
筆塚ですが本堂に向かって左側、お札授受の建物裏にひっそりとあります。橘流寄席文字の筆塚です。家元橘右近の字で立派な、それでもちょっと寂しくあります。その塚を囲むようにブロックに削り込んだ講の方で席亭、噺家、旅館、飲食店が書き込まれています。講元は呼び方は違いますが鈴本亭、読めるのもありますが大体は、読みづらくなっています。
字も右から左で寄席文字ぽく読みづらい。順不同で読めそうなもの。人形町通末広亭、上野広小路講元鈴本亭、上野広小路 旅館山城屋、桂三木助・三好夢輔、湯島 志満多 天三、下谷 鶴の家 池の端、横浜市若竹町 美津木 歌?、二代目三遊亭園遊・三遊亭遊三、桂文楽・三遊亭山藤、春風亭柳昇・○○亭柳橋、浪速亭重松、立花家園喬、下谷 いさ梅 池の端、京橋 新肴町 大松、新橋 中出紋平、二代目柳家枝太郎・二代目柳亭朝枝、川崎弁天町 松蕉井、京橋具足町 大槻才次郎など。
その他に境内の真ん中に橘右近83歳と書かれた力石があります。持ちあげなくても触って元気を貰うということのようです。昔は若い衆が持ち上げたんでしょう。
海徳寺 日蓮宗 品川区南品川1-2-10
このお寺さんは王選手が大好きだった少年の墓。入院中や没後も王選手が訪れお参りをしたそうでいつの間にかホームラン地蔵と呼ばれています。屋根を支える珍しい力士像、軍艦千歳殉難者の碑、昔の版木20枚などがあります。
筆塚は日本書鏡院のものです。本部が荏原神社近くにあります。長谷川耕南翁から現在は耕生先生のようです。実は私は耕生先生がお書きになった正月の色紙を戴いたことがあります。
版木もそうですが昔はお寺さんで色々お札や正月の七福神の絵など戴いたようで、今でも掛け軸などを書く和尚さんが多いようです。今はあまり使わなくなりましたが昔は筆が1番の筆記用具でした。探せばもっとあると思います。海が近いので包丁塚、針塚など色々あるようです。
日本書鏡院HP
http://www.shokyoin.com/1.html
朝、目が醒めてなぜか空也の最中が食べたくなり銀座へ向かう。事前に分かっていれば予約を入れれば午前中に行けば良いのですが、私は決して我がままではないのですが急に食べたくなります。
明治17年に池之端で開業、戦災の為消失し昭和24年に銀座6丁目に並木通りに出店、自社ビル。焼けて上野から銀座へ、逆なら何となく分かるが消失のため銀座へ。凄い。
栞によると初代が関東空也衆という踊り念仏を唱える宗派?で踊り念仏の拍子を取るときに叩くひょうたんをもしたもので名前、形をとったようです。最中のかわは九代目団十郎を訪問した時火鉢の引き出しから最中を出しちょっと焦がして勧められたものからのヒントのようです。店の暖簾は「くうやもなか」とひらがなですがこれは梅原龍三郎画伯の揮毫。
この店は予約を入れて取りに来る以外買えません。そして配達は人手不足の為しません。宅急便は最中のかわが壊れるのでしません。家訓で「菓子を売れども貸し売りはしない」ということでカードは一切使用できません。
10時から販売ですが場合によっては10分も持たなく売切れです。基本のスタンスは銀座で安くて美味しい和菓子を出来る範囲でつくり、その日のうちに売るきる方針。
昔から作家にもフアンが多く夏目漱石「我輩は猫である」、林芙美子「匂い董」小島政二郎「金の指」などにも出てきます。口の悪い私としては夏目漱石は羽二重団子もファンだったと言われています。探せばもっとあるでしょう。
でもここの最中は大きさも丁度良く美味しい。かわを自慢する位でパリットしていて香ばしい。年に何回か食べたくなり早起きをして30分前には並ぶ。今週は寒かったが食べたさの方が勝っていました。私は駄目もとで並びますが予約をお勧めします。
東京土産の代表格、料亭などの帰りのお土産としても大森松尾の海苔と共に。
銀座6丁目並木通り 空也 03-3571-3304日祝日休み
泊舩寺 臨済宗大徳寺派 品川区東大井4-5-2
品川宿界隈での俳句といえば泊舩寺が俳句寺として有名です。泊舩寺は芭蕉ゆかりの寺として境内には多くの句碑があります。実はどれがどれだか読めませんが芭蕉の句碑は2基あります。
旅人と 我が名呼ばれん 初時雨
いかめしき 音やあられの 檜笠
木造松尾芭蕉坐像は高さ38,3㎝寄木造り、芭蕉旅姿版下など、その他に芭蕉のお弟子の木造服部嵐雪坐像、宝井基角坐像などがあります。
品川区指定有形文化財として木造白牛禅師坐像があります。高さ32.6㎝、寄木造り黒色仕上げだそうです。泊舩寺内の芭蕉堂に山奴(さんど)という俳人が住み、弟子景山とともにこの地域の人に俳諧の道を広め、門人数百名に及んだという。山奴は後に出家して白牛禅師となった。この寺が俳句寺として有名になったのも彼の力に負うところが大きいと言われています。
芭蕉10門人
宝井基角、越智越人、各務支考、志太野坡、杉山杉風、立花北枝、内籐丈草、服部嵐雪、向井去来、森川許六
海晏寺 曹洞宗 品川区南品川5-16-22
岩倉具視などの有名人のお墓が多くあることで有名です。江戸時代は紅葉の名所としても有名で江戸名所図絵にも描かれています。
ここには俳人白井鳥酔の墓、春秋庵白雄のお墓があります。
松茸の 匂ふ山あり 鼻の先 鳥酔
菊百合を 両尊にして たち葵 鳥酔
たちいでて 芙蓉のしぼむ 日に逢へり 白雄
来福寺 真言宗 品川区東大井3-13-1
前回も書いた雪中庵蓼太の句碑、雪中庵派は芭蕉の弟子服部嵐雪が起こした。江戸俳諧で大きな勢力となった。蓼太は嵐雪のお墓などを建立。
世の中は 三日見ぬ間の 桜かな 蓼太
師匠嵐雪が蒲田梅屋敷を詠んだ句として
白雲の 滝をつつむや 梅の花
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今日は24節季で雨水です。今まで降り積もった雪や氷がとけ始め、また降る雪も雨に変わる頃と言われています。また、農耕の準備を始める目安時期、この日にひな人形を飾り付けると良縁に恵まれるとも言われています。但し、雛人形は次の啓蟄までには片付けなくてはいけないようです。
暦的には春に近づいているようですが、三寒四温でなくこの所は一温4寒的になって昨日のように2月としては観測史上最大の降雨量が出たり、南風から北風と着ている物をどうした良いか解らない気候になったりしています。
そうは言いながら梅祭りが始まってきました。就職戦線は未だ氷河期ですが株価は企業の好決算、外国に比べ出遅れ観からか徐々に上がり始めてきました。
政局は与党の足元から崩れ始め企業で言えば社長以外に部長クラスや課長クラスも色々言い始めました。纏まりがありません。もう時間的に持ちこたえられなくなりそうです。ここはまだ春は遠く土砂降りです。政治がこれだと生活にも影響が出てくるでしょう。
さて、隠れ家に紙の小さな雛人形を飾りつけよう。
流行編
ボーナスは メガネかけても 飛び出さず 3D頼り夫
上司より 頼れる使える スマートフォン ただの平社員
山GIRL 妻はお腹に 山がある 妻はぽっちゃり53歳
指舐めて ページめくる アイパッド 化石パパ
父への悲哀
ノー残業 妻のストレス 増加中 イクメン38
そびえ立つ 妻の我が家の スカイツリー やなぎびと
コンビニで 整いました 母の味 どや顔ママ
小遣いを 下、下、下と下げる わが女房 目玉おやじ
政治ネタ
我が家でも 領土問題 あなた邪魔 阪神大雅ぁ~す
父さんの 機密費すでに 底をつく てる坊
風呂の順 2番じゃダメかと 追い出され まめまろ
社会ネタ
月給日 ゲゲゲと 女房肩落とす 一見
何になる 子供の答えは 正社員 氷河期
お見合いの 決め手になった 正社員 読み人知らず
ママゴトで 帰りが早いと ぼやく女児 その父
健康ネタ
ときめきは 四十路過ぎると 不整脈 ミセスハッコ
デトックス 言う妻体形 デラックス ネクタイよれよれ
毎回楽しい川柳を提供してくれる第一生命のサラリーマン川柳コンクール。今年も選ばれた100句、この中から投票によりベスト10が選ばれます。もう24回になるようです。3月16日が投票締め切りです。
100句はどれもウ~ンと思ったり、納得したり、旨いと思ったり素晴らしい内容で的を得ています。今年も父親の悲哀が多いようです。また流行語関係ではハイテク機器が多いですが山ガールなどもあったんですね。今回は切実な言葉が多く、健康ネタは少なかったようです。
お見合いの決め手が正社員なんて笑っていられない社会情勢のようで、子供の将来なりたいものが正社員じゃ、将来寂しい。
第一生命サラリーマン川柳は
http://event.dai-ichi-life.co.jp/company/senryu/index.html
16日で終わってしまったが代官山のヒルサイドテラスでアートフロントギャラリー主催の「船田玉樹 現代日本画の精髄」というタイトルの展覧会が行われていた。
個人的にちょっと代官山という地名は何か行っては、言ってはいけない地名のように呪縛されているようです。現実に車で通ることはあってもわざわざ電車で降り立ったのは何年振りなのでしょうか。
広島県出身の日本画家で速水御舟、小林古径に師事したようです。私はもともと良く分かっていなくお宝鑑定団に出てくる有名人でも知らないくらいで今回の船田玉樹さんという名前も今回初めて知りました。
四曲一双の屏風絵、扇絵、掛軸小品などですがこれ日本画?といった感じもあり屏風絵はとても迫力があり立ちどまざるをえないような力強さです。今回は船田玉樹という人の紹介も兼ねているようで入場無料でした。ギャラリーへ行ったような気がしました。
掛軸小品と書きましたがちょっと良いなぁと思ったのは280萬円だそうです。個人的には表装も?これが?と思いましたが。私が解っていないからなんでしょう。手も足も出ないとはこの事か。
アートフロントギャラリー
http://artfrontgallery.com/exhibition/archive/2011_02/579.html

似たようなもので石川県加賀市の音羽堂の加賀紫雲石があります。今回の薄小倉の材料が同じようなものですが食べ比べた場合、加賀紫雲石の方がさっぱりとして大納言も少ない。個人的好き嫌いが出るでしょう。
そんな中、松江の桂月堂、出雲銘菓薄小倉を銀座の三越で買ってみました。実は、小城羊羹を買いに行ったんです。小城羊羹は月一第三水曜日のみの販売なのです。薄小倉は2×5cm位の小さな羊羹です。
周りはかんてんなんでしょうか、水あめの塊なんでしょうかちょっと歯ごたえがあり中の小豆がまたアズキーという主張がありとても美味しく、歯ごたえがあり大変気に入りました。これからは島根のアンテナショップか小城羊羹と一緒に三越で買うことになりそうです。
そして松江は大学の先輩、同期もおり何度かお邪魔しています。またお城でも見に、一畑電車、シジミ、そば、温泉でも楽しみに行こうかなぁと思ったりしています。
桂月堂のHP
http://www.keigetsudo.jp/product.htm
鉄道の初代鉄道頭、鉄道の父と言われる井上勝のお墓は、東海寺の大山墓地に祭られています。東海寺は沢庵和尚を開祖として家光の庇護のもと大きな敷地だったようです。途中に京急の鉄道、第一京浜国道などにより東海寺本堂とこの大山墓地は離れています。大山墓地は大崎に近いところです。
この墓地には井上以外にも有名なお墓があります。当然、沢庵和尚の墓、夢という字の石碑、国学四大人の一人賀茂真淵、ガラス製造の民間経営の西村勝三などが祭られています。この地は三角地で山手線、東海道線、新幹線などが脇を走っています。鉄道の父、井上勝の墓としては最高の地です。しかし他の人にとってはこんなうるさい処になるとは思ってもいなかったでしょう。
鉄道の地としては旧新橋停車場として平成15年に昔の建物の外観を忠実に復元したものが汐留にあります。そして建物の裏には鉄道の起点であるゼロキロポストが当時と同じ処に再現されています。当時のレールも施設されています。
当時の技術はイギリスからで植民地政策をとるイギリスは標準軌でない短いレール幅の技術を持ってきた。今でも標準軌を使っているのは新幹線など一部のレールになっています。京浜急行は珍しい標準軌を採用していますが是に関しては後日また。
現在、旧新橋停車場では警視庁カメラマン石川光陽が撮った写真展が開催されています。期間は3月21日まで入場無料、戦前を中心とした東京の写真を展示しています。大変興味が湧く写真も多くもう少しゆっくりして見たかった思いがあります。
鉄ちゃんとしては、大山墓地の井上勝の墓、旧新橋停車場歴史展示室、大宮のテッパクになるんでしょうか。井上勝には変わった物として小岩井農場なんていうものもあります。明治24年、火山灰の原野開墾による小岩井ですが小野義真、岩崎弥之助、井上勝の頭文字をとったものだそうです。
本拠地を鎌倉にして平家に不満を持つ東国武士を集め挙兵する。源氏の勢いが増し平家は劣勢になる。富士川の戦いの後、景時は平家の大庭景親から源頼朝へ仕える。
景時は御家人統括の侍所の次官、鶴岡八幡宮の造営奉行、雑事奉行へと頼朝の引き上げにより上位に付いていく。そんな中義経との仲が旨く行かなくなる。屋島の戦いの会議で義経の戦い方は大将が先頭を切っていく戦いをする当時としては異色な物だった。当時は、双方から代表者が出て名乗り合いそれから戦いが始まる。
屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと勝ったが勝利を自分ひとりの物とし戦い方も頼朝公の命令に反するなどと報告により義経は鎌倉へ入れず。頼朝が征夷大将軍になると景時の力も大きくなった。景時の報告により窮地にたたされたり罰として殺されたりと景時の横暴な振る舞いが目立ってきた。
結城朝光、畠山重忠との確執、源範頼との反目。しかし、頼朝の死後は景時の後ろ盾がなくなり以前から景時の態度を嫌っていた御家人から反撃を受ける。2代源頼家から追放に合い、清水の高源寺近くで一族が死滅。このお寺にお墓がある。
そんな典型的なサラリーマン的な生活であったが大田区馬込の万福寺にも五輪の塔がお墓だと言われている。また愛馬麿墨(するすみ)の像もある。
品川宿の北条時頼が開基といわれる海晏寺には時頼、時宗、景時のものと伝わる石塔がある。来福寺には梶原稲荷神社また、大田区六郷神社の太鼓橋は景時寄進のものとされている。手水石は頼朝奉献といわれている。これは、源頼義、義家の父子が前九年の戦い、そして頼朝も奥州出陣の戦勝祈願をしたお礼に社殿造営したようです。
景時はどちらかというと余り良くは言われていない。目端が利き頼朝親分の力で生きていた。戦力のある義経を陥れたといったことが前面に出ています。まぁサラリーマンはどこでも同じだと思うのですが。
名所や昔の普通の建物はいつの間にか無くなってしまいます。そして文化という目に見えないものも無くなっています。ご先祖さんに他所のお墓ばかり行って自分の所へ来ないと言われても困るので週に2~3回は墓参をしています。
品川宿は此処からと言う印は新八ッ山橋を渡って京急の線路を渡るまでが一寸した広場になっています。そのの周りに東屋が出来ていて品川宿の案内板、東司と書かれた江戸風のトイレ、新八ッ山橋のたもとに八ッ山橋の親柱が残っています。この新しい橋は歩道、車道になっていてその脇には京急の橋梁があります。その下にはJRが走っています。
脇には石で出来たベンチや各宿場が書かれた石碑は差し込まれていますがなぜか大津までしか私には解りません。従是南 品川宿、従是南 御代官 築山茂左衛門 支配所と書かれた大きな木柱が立っています。さぁ此処からが品川宿ですよということです。
ゴジラという映画は東京湾からこの地に上陸し東海道線をを咥え振り回していたシーンです。
土蔵相模、問答河岸、釜屋などはもう此処が昔あった所というだけです。という碑だけです。コンビニやマンションなどもう言われなければ解りません。相模屋という大きな伎楼で外壁がなまこ壁だったため通称として呼ばれていた。沢庵和尚と三代将軍家光との問答、「海近くして如何か東海寺(遠)」これに和尚が「大軍を指揮して将軍(小)というが如し」と答えたと言う。釜屋も新撰組の定宿だったそうですが今はマンション。
品川は江戸の内湾に面し室町時代から港として開けたところだったようです。江戸時代は、遊所として北の吉原、南の品川という事実上の遊郭で夏は避暑などの船あそび、つり、潮干狩りや春の花見、秋の紅葉と行楽の地でもあったようです。
江戸時代は大消費地江戸に近く漁業や海苔つくりなどが盛んで御菜肴浦として新鮮な魚介類を将軍家に献上をする義務を持たされてもいました。江戸湾44ヶ浦の元締めで優先的な特権も持っていました。
うちよする 浪は御浜のおにはぞと くじらは 潮を ふくはうち海
鯨が迷って入り込んだこともあった様で江戸中の話題となり11代将軍家斉もご覧になると言う事で今の浜離宮まで持って行ったようです。そして鯨の骨の塚として利田神社にくじら塚として祀ってあります。
品川浦船だまり、今は屋形船のたまりになっています。品川神社には3代将軍から賜った葵のご紋の神輿があります。東海寺の大山墓地の脇には日本最初のガラス工場の碑、各お寺には樹齢が古いおおいちょうの木、本陣跡などただの広場と今は無いものが多いのが現実です。

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