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美術館・鉄道・お城・お相撲・お友達の話など趣味のブログです。
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蒲蒲線?春の地方選挙でも地元の区会議員の選挙公約に蒲蒲線の実現などが何人かの公約に見えました。現在JR蒲田駅と京急蒲田駅の間がかなり離れてします。100円バスに乗るか15分歩くかです。これを地下でJRでなく東急とつなげようと言う線路です。東口駅前の大田区役所は破綻した桃源社ビルでバブルの落し子的に地下には電車の発着ができる空間を設けてあるようです。

 

戦後の昭和20年9月、羽田空港拡張の為アメリカ軍による羽田の住民に対して48時間以内の全員退去命令が出されました。そのシンボルが羽田空港内にあった穴守稲荷神社の赤い大きな鳥居です。動かすと祟りがあるとの話も聞きました。

 

穴守線の上り線を強制接収し省線蒲田駅から穴守線に連絡する線路を新設し羽田航空基地と結ぶというものでした。1.3Kある省線蒲田と京浜蒲田間に仕分線5本を作り穴守線の軌間も省線の1067mmに変更させながら地域の住民を強制的に労働させ昭和21年10月に完成しました。

 

これはC11 106の蒸気機関車により羽田拡張の工事用資材、飛行機燃料などを輸送する目的でした。工事期間を短くするため資材の確保のため複線化していた穴守線の片線をはがし省線蒲田、京浜蒲田間のレールにして京浜の軌間は1435mmですから省線の1067mmに空港まで直して敷設をしました。

 

昭和27年に返還され複線復旧工事は軌間を元の1435mmに戻す事、国鉄蒲田駅に延びていた上り線をはがし元の京浜蒲田駅へ敷き直すという工事を行いました。同年に元の複線になりました。

 

目黒や渋谷などの駅から羽田空港へ直接乗り入れようという蒲蒲線、実はJR蒲田駅から京急蒲田駅を繋ごうというように見えますが実際は東急線を地下で繋げ途中駅として京急蒲田駅はありますが現実は大鳥居駅へ一気に持っていきそのまま京急の地下鉄道を使うというものです。

 

昔は鉄道が敷かれると町は発展してきました。今は、通過駅としてさびれていくという現象もあります。新幹線などは段階的に開設していくので八戸は一時良かったですがもう閑古鳥だそうです。昔は鉄道に反対して結果、町の発展が遅れたなんてありました。今は逆もあります。蒲田の商店街は歩く人が少なくなり今よりもっと寂れるかもしれません。

 

訳の分からない区議会議員が蒲蒲線、大田区にシティホテルをと馬鹿な事を言っています。シティホテルは東京では山手線内の極一部の地域しか成立しません。飛行場には成立するかも知れませんが今のところ大田区が国際都市とは誰も思っていません。外国人が多く住んでいるからかなぁ。
kamakamasen.jpg



昭和27年頃の線路入れ替え工事
京急110年史より

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官設大森停車場は明治9年開業しました。蒲田停車場はそれから遅れて明治37年に開業しました。やはり当初は乗降客は少なかったようです。

 

並走するように京浜電車は明治32年の六郷橋のたもとから川崎大師までの参詣客を運びながら川崎を中心に次第に線路を延ばし明治34年六郷から蒲田・大森海岸を通って官設鉄道大森停車場、35年に穴守線、38年に八ッ山、神奈川間が開通します。

 

官設鉄道はまだ蒸気列車で電車ではありませんが並走していれば当然競争になります。スピードでは停車駅の少ない官設鉄道が早く、京浜電車は座り心地の良いシートや大型電車、安い運賃、便利さ(乗降駅の多さ)を武器に乗客獲得に競争します。

 

沿線に穴守稲荷、川崎大師などの有名寺社ががあり縁日には化粧品会社とタイアップのサービスディを設けたりしたようです。次第に関東大震災で家を失った人々が郊外の大田区をはじめ市街地周辺に移り住むようになってきます。

 

現在も京急はJRと並行している品川、横浜、久里浜間でスピードだったり運賃・サービスで競争しています。空港線では、JRグループの東京モノレールと競争しています。このモノレールとの競争は最近、大田区役所も巻き込んでいます。JRも電車特定区間運賃と云う枠を設けて運賃値引きしています。この競争は明治からだったんですね。

線路幅、軌間は官設鉄道は1067㎜でイギリスは植民地にしているところなど大体この狭い軌間になっています。大隈重信が解らなく全て英国技師に投げたのが原因と言われています。戦前にはこの幅を標準軌(1435㎜)に軍部が戻そうと議論がありましたが資金難や時間などで結局当初のままです。国鉄時代にやっと新設のレールの新幹線は標準軌になりました。

多くの私鉄も1067㎜ですが京浜電車は当初から1435㎜でスピードが1067㎜に比べればでます。また一部の事業者は馬車鉄道のままのもっと狭い軌間を使用しているものもあります。関西の私鉄はスピード重視で標準軌です。関東では地下鉄以外少ないようです。

 

現京急は大田区内では本線が大森海岸・平和島・大森町・梅屋敷・京急蒲田・雑色(ぞうしき)・六郷土手、空港線が京急蒲田から糀谷(こうじや)・大鳥居・穴守稲荷・天空橋・国際線ターミナル駅・国内線ターミナル駅となります。

 

平和島は学校裏と呼ばれ大森町は山谷と呼ばれていました。昭和62年には京浜という駅名を京急へ改称、戦前には大森海岸、平和島間には八幡、京急蒲田、雑色間には出村と云う駅もあった。

暖かくなるとと言うより暑くなると甘いものが欲しくなります。目にすると買うもので鹿児島のぼんたん漬けがあります。丸いもの手ごろに切ってある物どちらでも良いのですがあの歯ごたえと最後に果物のほろ苦さ、酸っぱさが好きです。

今回もぼんたんを手に取りながら目は隣の甘夏に行っていました。甘夏は食べた事が無かったので今回はそれに。砂糖で漬けてあり尚且つ砂糖がまぶされていますのでとても甘く最後にみかんの酸っぱさがほんのり味わえます。

個人的には甘夏もありです。もしかすると暫くは甘夏にするかもしれません。今回買ったのは鹿児島県阿久根市の泰平食品の製品です。良く解りませんが私には鹿児島、長崎どちらのもの甘く歯ごたえがあり同じように思えます。メーカーには余り拘ってはいません。砂糖漬けが好きなのです。阿久根市がぼんたんの発祥のようです。

阿久根ぼんたん泰平食品
http://seitengai.com/taihei/

 

山王台地が明治中頃から大正期にかけて高級住宅地として発展するのは官設の大森停車場が開設したことによるところが大きい。開業当初は乗客が少なかったが明治22年頃から山王台地に政治家、実業家、高級官吏、将校などの住宅、別荘が建ち始めた。

 

明治の大森停車場は東海道線の陸蒸気と云われた列車で電車はまだ走っていなく本数も少なく時間通りでもなくホームで待つ必要があった。

 

プラットホームは上りと下りに別々にあり駅の東側には待合室があったが上りのホームには無く、簡単な屋根とベンチだけだった。それでは待ち時間が長く風雨に晒されることもあり不便で当局に陳情するも中々実現しない。

 

そこで今の西口の一部に50坪程の土地を借り自分たちで作ろうと言う事のなり会員を募り本当に明治39年に作ってしまった。会員は著名な政治家、学者、実業家、軍人など。初代委員長に司法官児島惟謙(こじま・これたか)が選ばれた。このおじさん確か丸亀だか宇和島の城内の広場で銅像を見たような?

 

この施設は待合室だけでなく社交場としての機能も持ちビリヤード、囲碁、将棋などもできそれなりの人の溜まり場になった。お互いの家を行き来しなくて、家人にも迷惑がかからず倶楽部として機能していったようです。


まだ電話も普及していない時代ここに来れば誰かに会えると言う「倶楽部」の機能が喜ばれたようです。入会金5円、月会費1円、夫婦者を雇い住まわせていたようです。

 

荏原郡の貴族院とも言われ地域の発展のためにも尽力をした。元来農村の新井宿と漁業の不入斗の合併の入新井村にも嫌がる不入斗の人々を調整をしたそうです。大正2年には西口出改所が出来、跨線橋も出来、この倶楽部の運動のたまものと言われている。

初期の目的を達成したのだから倶楽部は解散かと思いきや未だに大森倶楽部は存在し活動をしています。当初の目的から活動内容は変わっています。馬込文士村等の
PR活動など。5月末にモントレで総会が行なわれていたようです。設立から100年以上経っています。

 

 大森倶楽部JR大森駅 西口のスロープの右側 駅に隣接) 
                 

明治5年開通、大森停車場は明治9年に開設されています。この官設鉄道は鉄道頭井上勝の決断活躍で短期間に神戸まで開通しました。しかし、初めての鉄道工事は大田区内だけでも色々な事があったようです。

区内で最も苦労したのが多摩川の橋梁工事です。当初は木造ながら流水部には本格的なトラスト構造を用い,たわみ防止にはレール下にも斜め支柱を添えました。

用材には橋脚には松の丸太、トラスト部分にはヒノキを用いていましたが、時間が無く良く乾燥させていない、腐食剤もままならず、川底の橋脚の土砂も流されたりして、明治9年には鉄橋での架け替えになりました。

明治6年正月午後4時頃蒲田付近の民家など3棟を焼くという事故がありました。薪の火の粉が飛んで萱葺きの屋根に付いたようです。

また、蒸気機関車から電車へ移行する大正3年時もレールの沈下やパンタグラフの不具合など色々故障が出て中々予定の時間に到着しないなどのトラブルにもあったようです。

何も無かった地区でしたので真っ直ぐなレールが今でも引かれています。しかし、大森、蒲田も鉄道の駅が出来て人も多くなり町として繁栄をしていきます。

電車は、陸蒸気より機関車の方向転換も無く、加速減速の性能も優れ各私鉄も殆どが電車を採用しています。時代も陸蒸気から電車へと進んでいきます。
今日はちょっと仕事の真似事をしてから先月に続いて豊洲のララポート内にある平木浮世絵美術館に行きました。先月の続きの装いの美ー大正・昭和の美人画です。

大正昭和になると浮世絵も段々廃れて来ます。創作版画、新作版画などに流れが変わってきます。女性は何となく有っているか解りませんが鏡に向かう真剣な表情が女性の美しさなんでしょうか,そのチョットした横顔なんかは色っぽいです。

美人画ですから伊東深水、橋口五葉、鳥居言人、竹久夢二、北野恒冨、石井柏亭、関野準一郎、鏑木清方、我らが川瀬巴水など。初めて聞く名前もありパーマ頭だったり肉感的な立体感のあるこれが浮世絵?と言うものも多く木版画としてはそうですが浮世絵はやっぱり江戸かなぁと思います。

時期的にそうなのか先月までは原宿の太田記念美術館でも大江戸ファッション事始め、MOAでも江戸のファッションでした。

帰りに銀座により交通会館内の第20回東京新協美術展と並木通りのギャラリー枝香庵に寄りお決まりの松崎煎餅、富山のアンテナショップで氷見うどんを購入して帰宅。今日は禁酒で早寝予定。

平木浮世絵美術館
http://www.ukiyoe-tokyo.or.jp/2011exhibition/schedule2011.html
648a3c9b.jpg美しいものへの憧れは、人間本性のものですが、女性を描くのは、私にとって生涯のテーマであり、汲めども尽きぬ芸術の源泉です。涯のない一生の修行でもあるわけですが唯一回限りの自分の人生ゆえに、愛と仕事に何度も失望しながら尚且つ追い続け、人間の魂のヴィジョンに精進しようと頑張っています。(展示会挨拶より)

今日は剪定消毒などを午前中から始め、2時過ぎからJR蒲田駅前の大田区民ホール・アプリコで開催されています弦田英太郎(つるた・えいたろう)画伯の卒寿記念洋画展へお邪魔しました。

昨年も三越で個展を開くくらいお元気で受付にご本人が迎えてくれました。会場はそんなに狭くは無いのですが今回展示作品は殆どがF120(2m位)の大作で最近の作品もあります。

得意のモチーフが舞妓、バレリーナ,裸婦,自画像だそうで殆どが舞妓さんです。油絵で写実的で今にもしゃべりそうな、二人舞妓の場合話が聞こえてきそうなリアルな重量感があり全体を圧倒する絵です。トウシューズを持つバレリーナは愛しのママリンに似てドキッとしました。

日展、一水会へ出展した作品のようです。入ってすぐこの迫力に圧倒されます。このおじさん本当に90歳なんだろうかと思ってしまいます。

大森区新井宿生まれと書かれています。(現大田区中央)何となく今大田区内を歩いているので微笑ましく思いました。大田区美術家協会会長、明日まで開催しています。

作品の一部
http://www.issuikai.org/member/iin/2054.html

大森停車場付近、今で言う大森駅周辺の山王台地は雑木林や麦畑、低地は水田などで人口も少なく、繁栄していた東海道筋より反対も少なく鉄道が敷かれた。そして京浜電車も東口の大森停車場前に開通して一気に大森付近は交通の要所になりました。

 

京浜電車は10月の池上本門寺のお会式、夏の大森海岸の海水浴シーズンは大変込んだようです。電車は今の都電の様なチンチン電車でした。

 

しかし京浜電車は北品川、川崎間が開通しこの路線は支線となり昭和12年に経営合理化、道路建設などの為わずかな期間で廃線となりバスに変わっていきました。しかしこの交通網のお陰で多くの人が住み商店街も出来反映をしていきます。

 

そんな時に大正年間、今の東急池上線を建設しようと大森から池上、目黒方面に向かう計画が持ち上がりました。しかし大森付近は市街地化され商家の反対に逢い、当時ほとんど水田だった今の蒲田駅に接続することになりました。

 

時代が違いますが大森では今の都営地下鉄にも先祖代々の地下の土地が取られる、陥没するなど今では考えられない事で折角の繁栄の基軸を結果的に放棄してしまいました。

同じようにその当時一番繁栄していた現三原通りは第一京浜国道も反れて開通していますが今は寂れています。その分旧東海道の面影を残していますが。

 

それが良かったのか悪かったのか分かりませんが新しい文明文化が押し寄せてくる時代だった。

 

明治34年(1901)大森町、入新井町(新井宿・不入斗)に電気がつきました。大田区では一番最初についたと言われています。これは現京浜急行の前身の大師電気鉄道改め京浜電気鉄道が明治34年(1901)2月に品川延長線として六郷橋~官設鉄道の大森停車場(現JR大森駅)に開通させたことによります。

 

私鉄としては明治32年1月に日本で3番目、関東では一番最初の大師電気鉄道が六郷橋~大師まで開通しました。その当時は電気は未知なもので電気で走る車とはどんなものか開業当初は多くの見物客が集まったようです。

 

川崎大師の参拝客の為の電車ですが早く東京方面、穴守神社方面へ接続したいという目的もありとりあえず明治34年に六郷橋~(大森海岸経由)大森駅への開通を図り、翌年には京浜蒲田~穴守、六郷橋~京浜川崎と部分的に開通をしていきます。

 

今の大森海岸とJR大森駅間に京浜電車が走っていました。大森駅に接続ではなく現在の東海ビルにループ線を設けぐるっと回って走っていたようです。ですからその名残で東海ビルのところはぐるっと丸くなっています。(駅名は大森停車場前)

 

京浜電車は余った電気を有料にて各家庭に送電していました。電車事業でばかりでなく当時は電力供給事業もやっていました。これは川崎の火力発電所から大森発電所を経由して配分していました。

 

六郷橋~品川間の軌道施設が認可され電柱工事など配線が終了した大森町区域の一部で明治34年8月24日から電灯供給事業を始めました。最初の供給は大森町43戸、163灯に過ぎなかった。これはランプが主流でまだ電灯に対する認識もなく供給地域も狭かったのが要因でした。

 

その当時の大師電気鉄道の収入は108円82銭で平均1戸当たりの電気代が約250銭で米が25K買えたようで大変贅沢なものでもありました。

 

明治34年 大森、入新井、大井、明治42年 蒲田、羽田、六郷、川崎、大師 明治43年 馬込、池上、御幸、田島と徐々に増えて行きました。

 

明治34年の送電から明治42年までは冬場午後4時半から夏場は午後6時半から午前1時までの送電でした。スイッチを入れればつく便利な電灯は徐々に普及、日露戦争景気により多くの工場が建ち電力需要が拡大していきました。

 

43戸から始まった電灯・電力事業も大正2年年末には15町村1万戸に最盛期の大正10年には3万戸になったようです。第一次大戦後の大正の大恐慌により電力供給会社が競争相手の東京電灯(東京電力)に吸収合併されていき京浜電車も川崎運河等の多大な費用が必要になり電灯・電力事業から鉄道事業へ資金をシフトせざるを得なくなり22年間の事業から撤退をしました。

keihintetudou.jpg










上の図は大森停車場前のループ線を走る電車。下図は桜並木の六郷橋、大師間を走る開業当時の大師電気鉄道。左側の電柱には仁丹の広告があります。



sikiisi.jpg







上の石は京浜電車の走っていた敷石。現在は大森のイトーヨーカドー前に保存されています。

資料、京急グループ110年史より
今日は頑張って早朝の「インサイド・ジョブ」を川崎で見ました。日本で一番観客が多いといわれているところですがこの映画のスクリーンは小さいところで、観客も早朝で少ないのかホンの数名でした。

取材のスタイルで本当の当事者が出てきます。丸々インタビュー形式で中には拒否の人も多く、アナウンスで紹介しています。インタビュー形式ですから英語が聞き取れない私には字幕を読むのに疲れ果てます。それは通訳の問題なんでしょうが一本調子になっています。

アメリカの政治はやっぱり怖いと感じました。そして歳なのかサブプライムと言われても2008年の事なのにもう完全に忘れていた単語でした。グリーンスパーンはとっても良い人、経済の神様だと思っていたがとんでもなかったんですね。

まぁ経済史にもうなっていくんでしょう。それにしてもアメリカも怖いけど何でもかんでも忘れていく自分が怖くなってきました。


今月は後1本、西田敏行の「星守る犬」を見ようか悩んでいます。ハンカチでなくバスタオルが必要だと思うので。犬の名はハッピー、でもとても切ない話です。
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