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学校裏という駅は全国的にも珍しく、鉄ちゃんの間でも有名な駅の名です。普通駅名は〇〇大学前とか〇〇市役所前とその施設の名があり、大体駅の前と付きます。それが此処では何処の場所か解らず、前でなく裏です。この京浜電車の名前を付けた人はプライドが高く自分の駅の前でなく裏にしたんでしょうか。
結論から言いますと学校は寄来尋常小学校のちの旧大森第二小学校(現在の開桜小学校)です。駅の歴史は古く、明治34年(1901)に開業、誕生時は場所名の沢田という名前でした。まもなく学校裏になりました。
前に書いたブログの大森駅は大森ではなかったと言う事と関連しています。当時の大森は旧大森第二小学校があったあたりでここは当時大森の特産品だった海苔を扱う商店を中心とした繁華街だった。大森の区役所も現在の大森警察署でした。現在の三原通りはシャッター通りですがその当時は東京でも屈指の繁華街だったようです。
その市街地側から見た場合駅は丁度裏手にあったといいます。その後小学校は移転してしまいました。駅は昭和36年に平和島へ改称されました。
平和島は戦前から東京都が一部の埋め立てを開始したが戦争で一時中断していました。東京都の水道局の寮として利用されていました。戦争中は米軍、連合軍の捕虜収容所、敗戦後は日本の東条英機をはじめ戦犯の収容所になりそのような歴史を踏まえ平和への願いを込めて「平和島」と呼ばれるようになりました。
平和島はさらに埋め立てが進み各企業の流通センターやトラックターミナルなどの物流の拠点となっています。平和の森公園が出来て島ではなくなり陸続きになっています。その後、駅の名も平和島になりました。平和島温泉、大森競艇場(現平和島競艇)、レジャーランド平和島など遊園地や城南地区で一番大きいマンモスプールなどが出来行楽地になっていきます。現在はクアハウスなどの近代的な温浴施設やボートレース場です。島内に平和観音があり由来も書かれています。
参考
駅名から日本地図を旅する本 河出書房
大田区立男女平等推進センターエセナおおたという何となくいかめしい名前の施設で「折り紙で彩る源氏物語の世界」というタイトルの展示にママリンと一緒に見に行きました。
源氏物語全54帖に出てくる登場人物と時代背景を美しい折り紙で表現というクレジットに誘われました。会場はパネルに折り紙が入ってその隣に長い源氏物語のダイジェストが書かれています。何枚あるんでしょうか、とても長い。私には折り紙の人物が皆同じに見え、途中は解説文も飛ばして本来全部の解説文を読んだらたっぷり1時間は掛かるでしょうか。
作るのは大変な技術や背景などを考えるセンスなど長い時間が掛かったのでしょう。実は私の持っている折り紙と言うイメージは立体的なものという固定概念がありパネルに今回の折り紙は貼り付けてあり平面になります。
何処かで見た立体的な折り紙でのイメージが強くちょっとわざわざ此処へ来たのにといった気持ちが強くなりました。
何度も開催しているようです。6月29日(水)まで開催しています。クレジットに~千年の時空を越えてよみがえる雅な平安絵巻~となっています。源氏物語ですから「どぞ、本にはべめる」
写真ママリン
像の由来として旅にはいつも想い出が残る。新しい風景や見知らぬ人に会いたくて旅に出る。しかしそこで待っているのは「自分自身の内側」に他ならない事を発見する。
新島のモヤイ像は心の片隅に放ってある”透明な旅の日々”と同じなのではないでしょうか。身をひるがえして牙をむく自然を相手に私達の祖先は流人共々漁に農に力をあわせてその生を生きた。流人もその要請によくこたえたという。
古くから新島では「共同して仕事に当たる」ことを「モヤイ」と呼ぶ。私達にとってモヤイはとはそういう歴史とロマンを秘めた言葉である。今、大田区蒲田東口商店街と新島本村との友好の絆を祈念し私達の島が誇る「モヤイのこころ」を本島特産の「コーガ石」に刻む。
モヤイ合う力がそれぞれの地の平和と繁栄の担い手になる事を約して母なる東京都のこの地に贈る。此処に集う人々よ、もの言わぬモヤイの像は,あなた方に何を語りかけるのであろうか、願くば私達と共にその遥かなる祖先の声を聞かれることを。彫刻 植松茂
モヤイ像は一般的には渋谷駅が有名です。蒲田のモヤイ像は今は苔むして貫禄もあります。モヤイ像はイースター島のモアイをモデルにしているようですが全く違っています。
東日本大震災で自分では何が出来るか、何をしたらよいかとか考えている時にこの由来を見て皆で助け合う、モヤイの言葉を今かみしめています。無理せず長く出来る事は。
来月はかみさんのフラ関係で長崎へハワイアンを聞きに行きます。私にとってのハワイアンはロスインディオスの棚橋リーダー位しか知りませんが楽しみにしています。旨く行けば翌日は諫早城址のめがね橋、島原城、温泉宿、郵便局が行けそうです。
寄付、チャリティの絵、被災鉄道会社の切符、被災地の名産等も買いましたが今までどおりの生活の中でモヤイをしようと思っています。10年以上は掛かるようですから。それにしても終息の目処が立たない原発は余計だった。区の小学校のプール授業のボランティアも今のところ放射能で活動は未定のようです。
集めるつもりがなかったけど何時の間にかの鉄道グッズ
写真の写りがすみません、悪いです。写真をクリックしてもらうと少しは良く見えます。
池上線は大森から池上を経由して目黒までを想定していたが立ち退きの難しさや反対などから断念し水田地帯の蒲田駅西口を起点としました。当初は池上本門寺参拝客の便宜を図る目的で運行していきます。
大正11年10月蒲田駅から池上間1.9K単線営業開始、大正12年池上、雪谷、昭和2年雪谷、大崎広小路、3年五反田に乗り入れ全線開通します。
隣接には目蒲電鉄が走っていますので田園調布付近の乗客を吸収する目的で雪が谷から東玉川、新奥沢駅までの1.6Kの支線を設けます。昭和9年吸収により10年には廃止になりました。
池上線は区内では蒲田・蓮沼・池上・千鳥町・久が原・御嶽山(おんたけさん)雪谷大塚・石川台・洗足池・長原
昭和11年目蒲線と合併後雪谷と調布大塚を雪谷大塚、千鳥町も以前は光明寺駅から慶大グランド前駅,久が原も末広、東調布と変わってきました。
池上線にも歌があります。目蒲線と違って本格的歌謡曲です。西島三重子が歌う池上線本人の作曲で此処の歌詞にも古い電車と言うくだりがあります。朝などはぎゅうぎゅうづめの電車でした。クーラーも無く学校へ行く前にくたびれてしまう電車でした。
目蒲線はコミックソング的なものでしたが池上線はちょっと失恋した女性が昔の男を今も待っているしっとりした歌でした。この歌詞に出てくる駅は何処だと探した覚えがあります。
池上線の歌詞
古い電車のドアのそば
二人は黙って立っていた
話す言葉をさがしながら
すきま風に震えて
いくつ駅を過ぎたのか
忘れてあなたに 聞いたのに
じっと私を見つめながら
ゴメンねなんて言ったわ
泣いては 駄目だと 胸に聞かせて
白いハンカチを 握りしめたの
池上線が走る町に
あなたは 二度と来ないのね
池上線に揺られながら
今日も帰る私なの
これは東急75周年記念の全線入場券切符です。日付は9・9・9で色々な鉄道会社がスリーナインの絵柄を付けた切符を出していました。この当時はまだ目蒲線、池上線でした。朝早く起きて買いに行きました。蒲田駅で買えず、これは鵜の木あたりで買いました。あの当時を思い出します。
私にとって目蒲線、池上線といえばこの青がえるです。
明治の実業家渋沢栄一が中心になって理想的な郊外住宅地開発を目指した田園都市株式会社は洗足から多摩川にかけての高級住宅地を造成分譲していました。今や大田区というより全国的に有名な田園調布という地名です。
その住宅地の交通確保のための鉄道会社を大正11年目黒蒲田電鉄を設立しました。普通私鉄会社は先に鉄道ありきで、途中乗客誘致のため遊園地や宅地造成などを手掛けます。この会社は逆の発想です。
明治39年武蔵電気鉄道が渋谷広尾から横浜平沼間の電気鉄道を出願、しかし中々工事が進まず、田園都市株式会社はこの免許の一部を借り受けて大正12年3月目黒、多摩川間開通、11月多摩川、蒲田間開通で全線開通しました。
逆に武蔵電気鉄道は目蒲電鉄の傘下に入り東京横浜電鉄として再出発しました。東急の祖と言われる五島慶太は武蔵鉄道の常務でした。田園都市株式会社は目蒲鉄道を分離し五島慶太は専務として目蒲線の多摩川駅を起点に大正14年神奈川まで着工。
昭和2年に渋谷、7年に桜木町駅に乗り入れを果たしていきます。時代は大正12年の関東大震災の被害が少なく沿線に多くの人が移り住み始めてきます。
目蒲線は東急の発祥路線で都心と郊外を結ぶローカル線として発展していきます。飽和渋滞の混雑解消のため多摩川で平成12年9月蒲田からの路線を区切り多摩川線として蒲田駅と多摩川駅の折り返し運転区間としています。多摩川駅は東横線、三田線、南北線と接続大動脈へと変身しています。有名な隣の田園調布は多摩川線と切り離されました。
大田区内の駅
多摩川線 蒲田・矢口の渡し・武蔵新田・下丸子・鵜の木・沼部・多摩川の全線全駅
目黒線 田園調布・大岡山
目蒲線物語という歌が一時流行りました。おおくぼ良太で「僕の名前は東急目蒲線」というフレーズです。
ぼくの名前は東急目蒲線
父さんは東急東横線 母さんは東急田園都市線
そしてぼくに弟が出来た 東急新玉川線
父さん母さんにそっくりのシルバーメタリックの
綺麗な電車だ!
それに比べてこのぼくは 草色の醜い3両編成・・
(♪) ぼくの名前は目蒲線 さみしい電車だ目蒲線
あっても無くてもどうでもいい目蒲線
ちょっと茶化された歌です。有名な東急の発祥路線でありながら歌詞の通り青かえると言われた電車で暫くは空調設備も無く朝夕は満員電車で関西で言う阪急と同じような扱いでした。
目蒲電鉄、東横電鉄、池上電鉄が合併して今の東京急行電鉄の母体になっていきます。
蒲蒲線?春の地方選挙でも地元の区会議員の選挙公約に蒲蒲線の実現などが何人かの公約に見えました。現在JR蒲田駅と京急蒲田駅の間がかなり離れてします。100円バスに乗るか15分歩くかです。これを地下でJRでなく東急とつなげようと言う線路です。東口駅前の大田区役所は破綻した桃源社ビルでバブルの落し子的に地下には電車の発着ができる空間を設けてあるようです。
戦後の昭和20年9月、羽田空港拡張の為アメリカ軍による羽田の住民に対して48時間以内の全員退去命令が出されました。そのシンボルが羽田空港内にあった穴守稲荷神社の赤い大きな鳥居です。動かすと祟りがあるとの話も聞きました。
穴守線の上り線を強制接収し省線蒲田駅から穴守線に連絡する線路を新設し羽田航空基地と結ぶというものでした。1.3Kある省線蒲田と京浜蒲田間に仕分線5本を作り穴守線の軌間も省線の1067mmに変更させながら地域の住民を強制的に労働させ昭和21年10月に完成しました。
これはC11 106の蒸気機関車により羽田拡張の工事用資材、飛行機燃料などを輸送する目的でした。工事期間を短くするため資材の確保のため複線化していた穴守線の片線をはがし省線蒲田、京浜蒲田間のレールにして京浜の軌間は1435mmですから省線の1067mmに空港まで直して敷設をしました。
昭和27年に返還され複線復旧工事は軌間を元の1435mmに戻す事、
目黒や渋谷などの駅から羽田空港へ直接乗り入れようという蒲蒲線、実はJR蒲田駅から京急蒲田駅を繋ごうというように見えますが実際は東急線を地下で繋げ途中駅として京急蒲田駅はありますが現実は大鳥居駅へ一気に持っていきそのまま京急の地下鉄道を使うというものです。
昔は鉄道が敷かれると町は発展してきました。今は、通過駅としてさびれていくという現象もあります。新幹線などは段階的に開設していくので八戸は一時良かったですがもう閑古鳥だそうです。昔は鉄道に反対して結果、町の発展が遅れたなんてありました。今は逆もあります。蒲田の商店街は歩く人が少なくなり今よりもっと寂れるかもしれません。
訳の分からない区議会議員が蒲蒲線、大田区にシティホテルをと馬鹿な事を言っています。シティホテルは東京では山手線内の極一部の地域しか成立しません。飛行場には成立するかも知れませんが今のところ大田区が国際都市とは誰も思っていません。外国人が多く住んでいるからかなぁ。
昭和27年頃の線路入れ替え工事
京急110年史より
区内で最も苦労したのが多摩川の橋梁工事です。当初は木造ながら流水部には本格的なトラスト構造を用い,たわみ防止にはレール下にも斜め支柱を添えました。
用材には橋脚には松の丸太、トラスト部分にはヒノキを用いていましたが、時間が無く良く乾燥させていない、腐食剤もままならず、川底の橋脚の土砂も流されたりして、明治9年には鉄橋での架け替えになりました。
明治6年正月午後4時頃蒲田付近の民家など3棟を焼くという事故がありました。薪の火の粉が飛んで萱葺きの屋根に付いたようです。
また、蒸気機関車から電車へ移行する大正3年時もレールの沈下やパンタグラフの不具合など色々故障が出て中々予定の時間に到着しないなどのトラブルにもあったようです。
何も無かった地区でしたので真っ直ぐなレールが今でも引かれています。しかし、大森、蒲田も鉄道の駅が出来て人も多くなり町として繁栄をしていきます。
電車は、陸蒸気より機関車の方向転換も無く、加速減速の性能も優れ各私鉄も殆どが電車を採用しています。時代も陸蒸気から電車へと進んでいきます。
大森停車場付近、今で言う大森駅周辺の山王台地は雑木林や麦畑、低地は水田などで人口も少なく、繁栄していた東海道筋より反対も少なく鉄道が敷かれた。そして京浜電車も東口の大森停車場前に開通して一気に大森付近は交通の要所になりました。
京浜電車は10月の池上本門寺のお会式、夏の大森海岸の海水浴シーズンは大変込んだようです。電車は今の都電の様なチンチン電車でした。
しかし京浜電車は北品川、川崎間が開通しこの路線は支線となり昭和12年に経営合理化、道路建設などの為わずかな期間で廃線となりバスに変わっていきました。しかしこの交通網のお陰で多くの人が住み商店街も出来反映をしていきます。
そんな時に大正年間、今の東急池上線を建設しようと大森から池上、目黒方面に向かう計画が持ち上がりました。しかし大森付近は市街地化され商家の反対に逢い、当時ほとんど水田だった今の蒲田駅に接続することになりました。
時代が違いますが大森では今の都営地下鉄にも先祖代々の地下の土地が取られる、陥没するなど今では考えられない事で折角の繁栄の基軸を結果的に放棄してしまいました。
同じようにその当時一番繁栄していた現三原通りは第一京浜国道も反れて開通していますが今は寂れています。その分旧東海道の面影を残していますが。
それが良かったのか悪かったのか分かりませんが新しい文明文化が押し寄せてくる時代だった。
JR大森駅東口ロータリーにある明治45年製作の大森駅の階段鉄柱
写りが悪いですが左側鉄柱には鉄道院と入っています。
日本最初の陸蒸気が明治5年(1872)10月14日に新橋と横浜の間に開通しました。イギリスから93万ポンドを借り受け2年余りで竣工しました。
当初の計画は東海道筋に沿って大森海岸を通過する計画でした。東海道筋の住民の反対にあい、やむを得ず、当時の人家の少ない山王台地下を通す事になったようです。
旧東海道側は多くの人が通り宿屋、飲食、料理屋、海側は海苔の養殖や漁業などで多くの人が住んで賑わっていました。そこで木原山台地は麦畑と雑木林、低地部は水田などの人が余り住んでいない、反対の少ない所として選ばれました。
当初は大森駅はありませんでした。工務、修理などの小屋的なものがあったようです。また山王に鉄道関係の英国人が住んでいて手を挙げて列車を止め乗降していたようです。今では嘘のようです。
現在は大森駅周辺を大森と云いますが昔の大森村は環七より蒲田側一帯を言っていました。駅の西側は新井宿、海側は不入斗(いりやまず)と云っていました。後に両方あわせて入新井という地名になります。なぜ大森になったかは当時は大森村が人口も多く賑わいもあり地名的に名が通っていたという事で付けられたようです。
大森駅は明治9年に開業しました。隣の蒲田駅は明治37年ですからいかに大森駅が早かったか解ります。ちなみに東京駅は大正3年の開業です。
大森の名を有名にして今でも全国に名が通るのは大森貝塚です。明治11年モース博士が横浜から新橋に向かう車窓から発見。これが日本の考古学発祥の地となっています。
当時は鉄道院の管轄下にあったので院線電車と呼ばれ、大正9年鉄道省に昇格して省線と呼ばれました。今でもお年寄りが省線と言う事があります。まぁ私は国電ですが。
この後携帯のカメラ壊れて全く見えなくなりました。
大田区山王3丁目の新井宿義民6人衆のお墓で有名な善慶寺では今月の29日より夜8時から10時までホタルの夕べを行なうようです。山門横のお庭に人口の川を作りホタルを飛ばしているようです。
わざわざそのために区に近くの街灯をその時消してもらっているようです。今日はスタンプラリーでお邪魔したら境内の整理整頓をしている関係者の方がわざわざ説明をしていただきました。
大森の車が沢山通る池上通り近くで多くの灯りもあり全く想像もしていなくビックリです。大田区では他に知っているのは大森南の森ヶ崎の下水道局の施設内公園でのホタルは1度見たことがあります。
善慶寺では人工的に管理しています。ビオトープではないので日常の管理は大変だと思います。お近くの方は是非ご覧になってはと思います。
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