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丸岡城
通称 霞ヶ城
構造 平山城
天守 独立式望楼型2重3階
築城主 柴田勝豊
築城年 天正4年(1576年)
城主 本多、有馬氏など17名
遺構 現存木造天守、石垣
天正4年柴田勝家の甥勝豊により築城、天正10年清洲会議により勝豊は長浜城へ、天正11年柴田勝家は北ノ庄城で秀吉により滅ぼされる。丹羽長秀の所領となる。その後何代か城主、城代がかわり越前騒動や福井藩2代目松平忠直の不行跡を理由の福井藩分割を経て丸岡藩となる。寛永元年(1624)本多成重が藩主となる。元禄8年(1695)糸魚川藩より5万石で有馬氏入封。
このお城は勝豊築城から3年で上杉勢により焼失、昭和23年の福井震災で倒壊しています。昭和30年に倒壊材で復元修理しています。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を乗せていて屋根は笏谷石が乗せられています。北ノ庄城なども同じだったそうです。
石垣は野面積みです。中の階段ですが極端に言えば直角、階段に入る幅はバックを背負っていると入れるか入れないかの幅です。急ですからロープがついています。建物自体が重文ですから手すりをつけると改造になってしまいます。
このお城にもミステリーが伝わっています。1、石垣を作る時何度も崩れるので子供二人の片目の後家「静」を人柱とした。その条件が子供を侍に登用する事だったがしなかった。夜な夜な片目の蛇がでる。2、敵の襲来の時井戸より霞が出てお城を隠した。その井戸やお静の碑等もあります。
一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ 本多重次が長篠の戦いから妻へ送った手紙。丸岡では毎年テーマを決めて公募をしています。その綴りの「日本一短い母への手紙」はベストセラーになっています。入選作がお城入り口に沢山掲示されています。城の上り口には歴史資料館もあります。
この城は日本最古と地元では言っています。しかし、その根拠があいまいでかといって逆の証拠もないようです。専門家の中では「1階を下見板張とし3階では柱や長押を白木のままとする古式に見えることから勝豊時代の現存最古の天守とされています。実際には1階と2階の通柱がなく3階の廻縁は見せかけで層塔型天守の特徴を有している事から慶長18年本多成重によって造営されたのではともいう。しかしその年代の絵図には天守が描かれていないという問題もある。結局築年数不明。
城下の堀は現在一部しか残っていません。円光寺にキリスト燈篭があります。これは島原の有馬氏の流れの人が隠れキリシタンとしてこの地にも来ていたんだということでしょうか。
これで現存木造天守のお城12城は廻りました。ちょっとした感動があるかと思いましたがそれもなくちょっと、あぁ終わっただけでした。
山城は年齢的のもかなり限界に来ています。1つだけなら良いのですが折角行くんだからとお城なら何でもと言った感じで数を周りとやはりきついです。元一ノ矢の松田さんの腰トレや週に数回のトレーニングをやっていますがやはり夏で階段は厳しいです。
地方へ行くと和式のトイレがそれも厳しくなってきます。歩いてる程度じゃ駄目ですね。もう椅子の生活が長いので生活習慣から長い年月で自然に足腰がやわに成っているようです。これからも現存天守に拘らずお城めぐりは郵便局スタンプと共にやっていこうと思っています。
だって馬鹿と煙は高く上がるそうです。天守からの景色と風は何とも言えません。
今までのお城の参考文献
日本の名城がわかる本 本山一城 リイド社
日本の百名城 八幡和郎 KKベストセラーズ
日本の城 中井 均 山川出版社
日本の城 監修 西ヶ谷恭弘 世界文化社
名城地図帳 大沢広彰 学習研究社
日本の城封印されたミステリー 平川陽一 PHP研究所
この他に各地の観光協会のパンフ、ちらし
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