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美術館・鉄道・お城・お相撲・お友達の話など趣味のブログです。
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大田区の旧東海道は磐井神社(いわいじんじゃ)から美原(三原)通りを抜け第一京浜と京急に沿って六郷の渡しまでです。その間、古道があり、横道にそれますが歴史的な事件など起こってきます。

 

何だかんだ大田区の殆どを歩くようになります。例えば馬込は太田道灌がお城の選定の候補としていたというところで歴史にタラレバは意味がないですが場合によっては江戸時代でなく馬込時代といったかも知れないのです。

 

古道では池上や羽田への道があります。また好きな鉄道で言えば鉄道唱歌の4番には梅に名をえし大森を すぐれば早も川崎の 大師河原は程ちかし 急げや電気の道すぐに  この梅の名所は八景園だそうです。

 

安藤広重の江戸百景には八景坂鎧掛松として描かれています。天祖神社にある荒藺崎八景碑には笠嶋夜雨、鮫洲晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、池上晩鐘と書かれています。

 

遊園地の八景園、中国料理屋になったり近くに子爵の家があり行幸啓されたりもしたようです。そんな旧東海道から離れた場所でも意外にこの東海道につながる話になっていたりします。女塚、新田神社などそんなこんなをバラバラですがゆっくりやっていこうと思っています。最後は話がまとまるように考えて歩いて行こうと思っています。

 

またその時代の食べ物で今も食べられるものや浮世絵、仏像、彫刻、絵画、大田区の古墳、城・館なども楽しんで行こうとも思っています。そうは言いながら読まなければならない資料がうれしい事に莫大にあります。口語体で書かれていれば良いのですが中々読み進めないこともあります。まぁのんびり行こうと思ってはいます。

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馬込は大根畑で都会から離れた九十九谷の起伏の激しい郊外でした。ここへ大正12年尾崎士郎、宇野千代夫妻がやってきました。そして関東大震災の後ということもあり住宅難も手伝い、尾崎士郎の誘いに多くの文人、画家達がやってきます。

それが今の馬込文士村と言われる元になります。互いの家を行きかい、酒を酌み交わし文学談義に花を咲かせたのでしょうか。麻雀、ダンスに興じ、はては離婚騒動までも持ち上がりました。

今は残っている旧宅は少ないです。そんな旧宅跡の碑を頼りに昔の文人を訪ね歩くのも散歩を兼ね坂道を歩くのも健康にも昔への浪漫にも良いのでは。さて、此処へ来た文人、画家はどの位いたのでしょうか。

パパリンの趣味の世界

有名どころだけでもかなりな数になります。(順不同)
小島政二郎、尾崎士郎、宇野千代、日夏秋之介、北原白秋、徳富蘇峰、室生犀星、吉田甲子太郎、藤浦洸、今井達夫、三好達治、山本周五郎、佐藤惣之助、萩原朔太郎、小林古径、三島由紀夫、国木田虎雄、川端康成、川端龍子,石坂洋次郎、子母沢寛、山本有三、池部均、熊谷恒子、高見順、古屋信子、佐田稲子、川瀬巴水、など。

もっと多くの方がいます。私が知っている名前ですからビッグネームの人達だけです。親分で面倒見の良かったと言う尾崎士郎、住宅難で都会に比べれば景観が良くのんびりしていた馬込に魅せられたんでしょうか。この人達の足跡を訪ね歩く散歩も結構楽しいです。チョットきつく体重も落ちればもっと良いのですが。
山王会館真ん中の受付の1階の奥に馬込文士村資料展示室があります。尾崎士郎、宇野千代、山本有三などの使用品や原稿などがあります。

私は2階で受付をしてくださいと言ったおばはんに文士村資料を見に行きますと言ったらそこは勝手に見てくださいと言われた。言われたとおり勝手に入って見ていて宇野千代の着物の写真を撮ろうとしたら慌てて先ほどのオバはんが飛んできた。「写真は撮らないでください。書いてあるでしょ。」確かに書いてあります。うっかりしていました。のんびりしていたところに私が突然来たのがいけないような感じを受けました。

「監視カメラがあるんですよ。」と言いながら戻って行きました。山王会館はマンションの一室ですのでバルコニー風に飛び出したお部屋から大森駅方面が見えます。昔は此処から江戸湾の小船や黒船も見えたんでしょうか。くつろぐにはちょっと硬い椅子が置いてあります。

散歩疲れでのんびりするのには良いところですが区立ですので飲み物も先ほどの写真もバツです。また、監視カメラがありのんびり何んて出来るんでしょうか。(苦笑)

将来的には尾崎士郎記念館があるように全体の記念館的なものがもっと誰でも歩いてこれるところに作られるんでしょうか。郷土資料館の発展的なものでも、ただ余り箱物を作ると維持費が結構掛かかります。個人の邸宅の跡の記念館は川端龍子、熊谷恒子記念館、山王草堂記念館などあります。

帰りに相性の悪かったオバちゃんにありがとうございました。と挨拶をしたが返事もしなかった。まぁ区立の施設はこんなものか。
伊豆には天城湯ヶ島の出口というバス停、交差点に昔から出口の黒玉という飴があります。場所名が出口、そこにあるから出口の黒玉、伊豆の銘菓としてラジオでも宣伝しています。

勿論、黒玉以外にみそ玉、うす茶、みかん、いちご、サマーオレンジなど近隣で取れるものを飴玉にしています。個人的にはやっぱり黒玉です。

富士宮にはまわりが砂糖がまぶしてある元祖みそ玉という飴玉があります。飴と蜂蜜、周りが砂糖と言う飴玉です。チョット柔らかくすぐ口の中で噛んで粉々になってしまいます。

昔はお袋やチョットお歳のお客様が良くバッグの中に飴玉をいれてバスの中など口寂しいと舐めていたのを思い出します。年寄りのお供に飴玉と思っていました。

やっぱり私も飴玉の歳になってきました。黒柳徹子さんみたいに髪の毛が多くもないので頭からキャンディーは出しませんが何となくポケットに入れています。現役の営業担当の時は夕方、疲れの予防か机にメリーチョコレートのキャンディ缶を置いていたことはありますが。

昔オバちゃんをチョット馬鹿にしていましたがついに私もその歳になったようです。言い訳としてはタバコを止めているので口寂しいのでキャンディーをとなります。しかし、これは太ると言う事で昆布にしていたはずです。それが何時の間にか飴玉で体も飴玉宜しく丸くなってきました。人間的にもそうなれば良いのですが其方はまだ修行が足りないようです。

歳を感じる事として体力以外にポケットに自然に飴玉があることのようです。
http://www3.tokai.or.jp/deguchi/ どちらも百年を超えているようです。
写真:山王会館の様子 
JR大森駅西口駅前から時間にして15分位でしょうか坂道をひたすら登っていきます。普段このような所に住んでいませんのでこの辺の人は大変だなぁと思ってしまいます。元気な子供達も息を切らして登っています。健康にはとても良いようです。

道は車が一台通れるかどうかの細い道もあり町の中を良く知らないと行き止まりに入ったり帰るにも大変そうです。勿論、選挙の街宣車は小さい車意外は無理です。まぁ閑静な住宅街ですからわざわざ騒がなくてもと思います。下に見える大森駅前からは街頭演説が聞こえます。おじさんの山王1丁目もそうですがここも火事になったら消防車が入れないような所です。

大田区立山王会館、マンションみたいな建物で研修室や貸しホール的な物があるようです。馬込文士村資料展示室になっていて入場無料と言う事を確認していただけで受付には誰もいなく勝手に入って「大田区百景」を見ていましたら受付のオバちゃんが突然なんで黙って入ってきたんだと記入用紙を持ちながら入ってきました。

大田区百景は2階ですと言うことが書いてあり2階は電気も付いているので見ていました。受付に通してくださいと言いながら戻っていました。電気が付いていましたよと言ったら前に来た人が居たんですと、節電と言いながら周りを暗くしているのに電気つけっぱなしはどうなんでしょうか。

大田区百景は昭和39年丁度オリンピックがあったり大田区内も激しく変貌を遂げている時でもあり、変わり行く町の姿を絵画と言う形で留めるとともに芸術文化の振興を図る目的で企画されたようです。

作家は区内在住の画家、区内の小学、中学校の先生などが書かれたようです。画面によってはもうなくなっているものや懐かしい場所だったり2部屋に渡って展示されています。

大田区って結構絵になる場所があるんだと思いました。見学者が他に居ませんし此処にこのような場所があることも今回始めて知りました。そしてこの場所は大田区立で運営しなくてはならないのか解りません。施設自体は他で運用できるような気がします。受付にオバさん2人も配置し入っていくのを確認も出来ず大きな声で雑談しています。出来た理由が良く解らないので決め付けはいけませんが箱物の無駄の典型のように見えます。

大田区立山王会館
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/hall/sannou_k/index.html


よね屋は大田区大森北の入三銀座商店街をJRの線路そばにあります。此処のご主人は大田区の歴史に基づいたお菓子を作って販売しています。

私は前にも書いたみたらし団子が好きですが今回は「義民桜」という洋風せんべいです。パリットした歯ざわりで桜にちなみピンクのパッケージに昔の新井宿を中心とした地図が印刷されています。

義民桜は新井宿(現在の山王)に延宝5年(1677)1月2日この地を治めていた直参旗本木原氏の年貢の厳しい徴収と大飢饉により直接将軍家綱に直訴をしようとした新井宿代表の6人衆は密告により捕まり打ち首となりました。直訴は大罪でひそかに海苔がめにいれ善慶寺で供養されました。毎年4月にお祭りが行われています。今年は4月10日供養のみでパレードは中止になりました。

よね屋では大森が海苔の産地と言う事から「乃里最中」、浮世絵馬込の月から「大田浪漫」というポテト、青木昆陽をイメージした「昆陽」など美味しい手作りの和菓子を販売しています。和菓子は季節季節で色々な芸術品?のねりきりなど毎月楽しく美味しく戴けます。そろそろ季節は桜餅から柏餅になります。

大森よね屋 
http://www.ekyaku.com/oishii/yoneya/index.htm
パパリンの趣味の世界暫くは大田区の資料集めと大田区の事をもう少し勉強しようと思っています。大体1~2年位ウロウロすればと思っています。しかし、大田区は23区の中で一番広く中々周るには時間が掛かりそうです。

パパリンの趣味の世界今日は午後から時間が出来たので馬込文士村関係の資料を見に大田区の大森山王2丁目にあります山王会館、1丁目の尾崎士郎記念館に行きました。

尾崎士郎は作家で人生劇場が大ヒットした人でこの人が馬込文士村を作ったと言っても過言ではない人です。また尾崎士郎は相撲が好きで大森相撲協会を作り文士や画家と相撲を取っていたようです。ただ、相撲はそんなに強くはなかったようです。

記念館には尾崎士郎の回し姿で大きなけやきに鉄砲をしている写真、しこの写真、横綱審議委員章、子供の為に買った軍配なども飾ってあります。

そして相撲関係の多くの小説や随筆を書いています。テーブルにおいてある相撲関係の本は「小説国技館」「相撲を見る眼」「雷電」「相撲随筆」「看板大関」「昭和の大相撲」などがあります。一ノ矢君辺りは読んでいるんでしょうが私は一冊も読んだ事がありません。

日本相撲協会は何とかいい加減な収まり方ですが5月は技量審査場所として変形本場所が開催します。残念な事にお相撲のゴタゴタを忘れた頃に尾上親方が高輪で飲酒運転事件を起こしました。

個人的には現役当時から浜の島として好きなお相撲さんで親方になってからも大田区池上でお部屋を開き把溜都、山本山など早くに関取誕生のお部屋で是からが楽しみなお部屋でした。親方も部屋経営に積極的で見るからに真面目そうでした。

そんな中、八百長で山本山、白乃波、境沢などの引退勧告などがあり2階級格下げになりました。今回、飲酒運転逮捕では1階級でも格下げになれば部屋を没収になります。ところが結論は10年間平年寄りという甘い事で終わったようです。

浜の島の同期で元肥後の海の木瀬親方は維持委員席問題で部屋がなくなりました。木瀬部屋は力士が多かったのですが大関が居なかったからですか、現役時代木瀬親方は品位が悪かったからですか、私にはどちらが軽く重いのか解りませんが今の時代サラリーマンでも即解雇です。文科省管轄の相撲で部屋の親方ならもっと厳しいのではと思います。

個人的には何度も言いますが浜の島は好きです。でも飲酒運転はなぁ。山王で尾崎士郎が泣いているぜ。

尾崎士郎記念館
http://www.city.ota.tokyo.jp/midokoro/spot/topimage_guide/ichimai_ozaki_kinen/index.html

昨日はボランティアの日々のチョット空いた時間に品川の京急高架下のどんぶり5人衆の海鮮ロイヤルに行って来ました。今週金曜日で店を止めます。

契約終了により閉店をします。経営者のKさんは今は故郷宮崎・小林でお店を営業しています。また、実家の酪農、農業の手伝いもしているとの事です。元々私どもが請負っていて人の使い方、顧客に対する提供品の需用供給のアンバランスなど旨くいっていませんでした。

何年も自分でやっているKさんに業務委託をしてお互いウインウインを狙いましたが流石のKさんもこの時期、場所では今までの経験が活かせず残念ながら大分前から諦めていました。

最終日は時間があればお邪魔しようと思いますがボランティアの最後の追い込みになりますので行けるかどうか。もう、飲み物も僅かになり自分のボトルも終わり、さて何か戴くかと思っても日本酒、焼酎しかなくつまみも殆どなし。長居も出来ずこそこそと帰りました。

短い間でしたがお世話になりました。
馬池洗(まいせん)と言う言葉がちょこっと地元で聞こえてきました。谷根千のもじりだと思います。大田区観光協会が散歩コースとして作った造語のようで谷根千にあやかろうと言うものです。

大田区は23区で一番広く観光地?チョット有名な場所もあります。しかし中々谷根千や浅草などと比べれば羽田空港位しか全国的な場所はありません。

そんな中でも池上本門寺には年間多くの方がお見えになっています。その範囲を少し広げて散歩コースとしてまた古くからの景勝地として歴史や観光の一翼になればと言う事のようです。

馬池洗(まいせん)は、この地区に焼き物の窯があるわけでなく馬込、池上、洗足の各地区の頭を取って並べたものです。観光協会のパンフに寄れば。

馬込 この辺りは武蔵国の馬の産地だった事。宇治川の合戦で有名な梶原景季の愛馬・磨墨がこの地で誕生し埋葬された事。九十九谷と呼ばれるほど狭い坂道が多かったため、狭い道を越えると言う意味の言葉で「まごめ」から馬込と名づけられたとされる。

関東大震災後、多くの被災者が東京郊外に移り住むようになり、馬込周辺も人口が増加。震災直前に越してきた尾崎士郎・宇野千代夫妻の誘いもあり、多くの文士達も居を構えるようになり「馬込文士村」が誕生しました。

大田区にお住まいでした木版画の大家故川瀬巴水(はすい)先生の馬込の月(渡辺版画より)昭和5年当時の馬込。

H2 馬込の月 Full Moon at Magome

馬込の月 昭和5年(1930)作
「東京ニ十景」という20図シリーズの1点
「巴水が住んでいた馬込の田園詩趣である。数幹の老松を思いきり大きく描き、雨後らしい冴え冴えとした満月を松の枝間に見せて、紺碧の一天地として作る。藁ぶきの農家から灯がもれる。丸い月と小さな角まどの狐燈の対照が実に巧妙である。巴水の夜景中の傑作として定評がある。」

静岡の名物の追分羊かんは、伊豆を担当していた時、甘いものが好きと言う事で仲居さんに推薦されたものです。

普段食べている羊かんと違い蒸し羊かんです。そして創業は元禄8年とまぁ300年は経っている老舗でもあります。竹の皮に包まれてそのまま皮ごと切って皮をむいて食べます。

私は毎回は蒸し羊かんですからそんなに食べませんが1年に数回目に付くと買う程度ですがもっちりとして甘味が抑えられていてちょっと濃いお茶に合うお菓子です。上品過ぎるのが私には難点かなぁ。でもたまにだから美味しい。

株式会社追分羊かんHP
http://www.oiwakeyokan.com/
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