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名所や昔の普通の建物はいつの間にか無くなってしまいます。そして文化という目に見えないものも無くなっています。ご先祖さんに他所のお墓ばかり行って自分の所へ来ないと言われても困るので週に2~3回は墓参をしています。
品川宿は此処からと言う印は新八ッ山橋を渡って京急の線路を渡るまでが一寸した広場になっています。そのの周りに東屋が出来ていて品川宿の案内板、東司と書かれた江戸風のトイレ、新八ッ山橋のたもとに八ッ山橋の親柱が残っています。この新しい橋は歩道、車道になっていてその脇には京急の橋梁があります。その下にはJRが走っています。
脇には石で出来たベンチや各宿場が書かれた石碑は差し込まれていますがなぜか大津までしか私には解りません。従是南 品川宿、従是南 御代官 築山茂左衛門 支配所と書かれた大きな木柱が立っています。さぁ此処からが品川宿ですよということです。
ゴジラという映画は東京湾からこの地に上陸し東海道線をを咥え振り回していたシーンです。
土蔵相模、問答河岸、釜屋などはもう此処が昔あった所というだけです。という碑だけです。コンビニやマンションなどもう言われなければ解りません。相模屋という大きな伎楼で外壁がなまこ壁だったため通称として呼ばれていた。沢庵和尚と三代将軍家光との問答、「海近くして如何か東海寺(遠)」これに和尚が「大軍を指揮して将軍(小)というが如し」と答えたと言う。釜屋も新撰組の定宿だったそうですが今はマンション。
品川は江戸の内湾に面し室町時代から港として開けたところだったようです。江戸時代は、遊所として北の吉原、南の品川という事実上の遊郭で夏は避暑などの船あそび、つり、潮干狩りや春の花見、秋の紅葉と行楽の地でもあったようです。
江戸時代は大消費地江戸に近く漁業や海苔つくりなどが盛んで御菜肴浦として新鮮な魚介類を将軍家に献上をする義務を持たされてもいました。江戸湾44ヶ浦の元締めで優先的な特権も持っていました。
うちよする 浪は御浜のおにはぞと くじらは 潮を ふくはうち海
鯨が迷って入り込んだこともあった様で江戸中の話題となり11代将軍家斉もご覧になると言う事で今の浜離宮まで持って行ったようです。そして鯨の骨の塚として利田神社にくじら塚として祀ってあります。
品川浦船だまり、今は屋形船のたまりになっています。品川神社には3代将軍から賜った葵のご紋の神輿があります。東海寺の大山墓地の脇には日本最初のガラス工場の碑、各お寺には樹齢が古いおおいちょうの木、本陣跡などただの広場と今は無いものが多いのが現実です。
品川宿を散歩すると御殿山、八ツ山といった地名が必ず出ます。しかし現在御殿山はない。地名としてだけ残っています。
江戸初期から元禄にかけて将軍家の鷹狩りの地となり休憩場として品川御殿が作られた。そこから御殿山とまた太田道灌が館を作ったからと色々あるようです。
この地は享保期には庶民に開放され桜の名所としてにぎわう。
幕末期は台場建設に伴い土砂採取で切り崩される。
明治期は鉄道建設工事によって南北に貫く切通しとなり桜の名所としての面影がなくなる。
歴史的に有名になったのは英国公使館焼き打ち事件。文久元年(1861)に外国公使館建設が決まり翌年、完成間際の英国公使館は高杉晋作、井上馨、伊藤博文らの尊王攘夷派によって焼き打ちされた。工事は中断しその後が建設されていない。
来福寺(海賞山地蔵院来福寺)真言宗智山派
品川区東大井3-13-1
創建は平安時代の中期正歴元年(990)といわれている。
・馬込地域に精力のあった小田原北条家幕下の梶原一門が特信
・境内には梶原稲荷神社(玉川八十八か所の74番札所)
・山門を入った左手に貞亨2年(1685)造立の庚申塔。
・本堂の左右に梶原松、延命桜を景季により手植えされたとされる。現在も立派な松、桜はあるが名前は継がれていない。
・本堂脇の林浄因の碑(まんじゅうの祖)現在も残る「塩瀬」
・阿波藍商人集団墓標群
・雪中庵蓼太句碑(世の中は三日見ぬ間に桜かな)
・江戸時代には海の見える丘陵一帯を占める広大な境内があり品種の違う様々な桜があることで知られていた。桜の名所。(江戸名所図会)春日の局の植えた桜もあった。
・山門、聖天堂は戦災を免れ建立より150年以上経つ。
・川崎大師平間寺の末寺、弘法大師像
前回も書いたかもしれませんがこのお寺さんは品川宿に沢山あるお寺さんの中でお寺さんらしいところと思っています。個人的ですが参道から山門、境内までアプローチが好きです。
このお寺はとても親切です。?本殿脇にはご参拝ありがとうございます。本殿でお休みください。とのご案内があります。また、お子様用のお守りを無料でいただけます。物を貰えるからという訳ではありませんがご住職の心が伝わってきます。
ちょっと小高いところですから昔は品川湊が見え、春は桜でとても良い所だったようです。
http://www.tesshow.jp/shinagawa/temple_eoi_raifuku.html
近世の宿場は徳川家康が天下を取ってからの東海道、中仙道と進められていきました。宿場には、公用人馬継立ての為人馬を常備。公武の宿泊休憩の為本陣、脇本陣などを整備。その他に一般旅行者用の旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが揃って行きます。参勤交代よりも庶民の遊興などによって栄えたようです。
しかしその宿場も明治になると鉄道の交通機関が開通し徐々に衰退して行きました。鉄道は大隈重信、伊藤博文、初代鉄道頭の井上勝の三人に寄る所が大きいと言われている。
明治2年鉄道事業が決定。その3年後には開業するという当時の技術や機械などを考えるとものすごいスピードだ。鉄道敷設に対しては賛成ばかりでなく反対も多かったようです。漁民は海に近い線路を作られると船が自由に出入りできない。農民は陸蒸気の振動で稲の朝露が落ち収穫に影響する。品川宿の馬車、カゴなどの業者も利用者が減る。尊皇攘夷で倒幕したのに毛頭に学ぶとは何事かと暗殺の話も出たりしたそうです。
決断はやい明治の人は八ッ山と御殿山を切り崩し八ツ山橋をくぐって反対者の少ない山側を通ることになったようです。鉄道と道路が立体交差した日本初のものです。当然品川駅は現在の八ツ山下の海に沿ったところのようです。明治22年には神戸まで開通。
場所は旧東海道の北品川から青物横丁までの商店街をメインストリートにして行われます。毎回多くの人がお見えになります。歴史的な街ですが地域活性化を目的として行われています。北品川本通り商店会、北品川商店街、京急新馬場商店街、品川宿場通り南会、青物横丁商店街などの協力で行われています。多くの商店街がひとつになって行っているのは毎回感心します。
メインの26日は交通安全パレードを先頭に(1日署長は八田亜矢子)江戸風俗行列など商店街ですから無数の模擬店が出店、ちょっとした広場では色々なイベントがあります。品川寺(ほんせんじ)では火渡り荒行、宿場寄席、鉄砲隊の試射、大道芸など。
カメラ片手の多くの人で真っ直ぐ歩けません。この日ばかりは歩きながらの買い食いも恥ずかしくありません。品川はホテルもありますのでプリンスホテルやラフォーレ等の出店、航空会社の出店などメジャーのお店も出ます。
昨年までは団扇の抽選でしたが今年は通行手形になるようです。お時間のある方は是非一度散歩がてらに、またお寺が沢山あります。有名な方のお墓、東海七福神めぐりなどもできます。ちょっと足を伸ばせば京急の立会川では坂本龍馬関係の見学もできます。
詳細は宿場まつりHpで
http://www.shinagawa-syukuba.com/
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