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f930289b.jpg今月の絵―広重作蒲田村「梅園」
写真は彫師 新実護充 摺師小野寺隆二 平成14年制作のものです。名所江戸百景。

今日は立春、当初今月の絵はいつもの広重の東都名所を考えていましたが今年は例年になく寒波が厳しく梅も咲くかどうかの時期に桜は早いと言う事で蒲田村梅屋敷にしました。此処はウオーキングコースでも書いていますのでダブります。

品川宿と六郷宿の間に梅屋敷と言われるお店がありました。当初は道中の常備薬としての「和中散」を販売したり茶店的なものでした。宝永年間(1704~1710)数軒あった1軒山本久三郎は和中散の本舗が近江の国の梅木村であった関係で庭に梅の木を植え酒肴も楽しめる茶屋を開業しました。
旧和中散本舗(滋賀)http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=1706 

それがいつしか梅屋敷と呼ばれ大盛況に広さも3000坪に及んだそうです。12代将軍家慶が鷹狩りの折、14代家茂が上洛の際など休憩をしています。
 
幕末には高杉晋作、佐久間象山、三条実朝、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などが会合を開き、特に高杉晋作など攘夷派の志士たちも此処で横浜異人館焼打ち計画の密議があり山内容堂、毛利元嗣などが慰留をした「梅屋敷事件」などが有名です。
 
明治維新後は明治天皇始め大正天皇、皇族の方のご来遊もあり特に明治天皇は9度の行幸、梅の木のお手植えもされていました。そして此処は聖跡梅屋敷公園となっています。
 
大正7年京浜国道の拡幅工事により東側が大きくさかれ西側は京浜電車の開通により大きくさかれ今は当時の面影は全くありません。現在狭い庭内には復元ですが里程標(距 日本橋3里18丁 蒲田村山本屋)山本家の梅の句碑、狂歌堂真顔の歌碑などがあります。弓道場、土俵もあります。
 
2cfbb48a.jpg東海道を往来した旅人、文人墨客に親しまれこの梅園は広重はじめ多くの絵師に描かれています。木戸孝允、伊藤博文が二人で此処で新年会をした際合作の一幅の中にも書かれたそうです。
 
広重の絵には上面に白梅、空は赤く、中段には池を望み萱葺きの小屋が2棟、遠くの梅には紅梅、その周りの小さく多くの人が観梅しています。この遠景を出しているのが下段の浮いているような籠、大きな梅の幹。

4a23186b.jpg幹の裏側には今もあります、句碑が幾つか建っています。小屋にはお茶を出している人、待っている人、春ののどかな一日が終わろうとしているようです。


そんな歴史的な場所も残念ながら再び京浜急行の高架事業、国道の拡張工事などで今は見る影もありません。同じように原村(矢口)の梅園も今は面影を留めるものがなくなっています。
 
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