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旅行から大分経ったけど
乗った列車
初めて乗った豊肥本線 九州は鹿児島本線、日豊本線が乗車は圧倒的でまだ西鹿児島駅と言う時代で新幹線により肥薩オレンジ鉄道に分割されてからは乗っていなく九州新幹線もまだ未乗車。
日豊本線ではわずかな時間2回ばかり特急ソニックに乗ったが写真は時間を気にして撮れず。黄色いディーゼル気動車。ディーゼル独特の音、レールの問題か揺れも旅に出ると心地よい。普段の通勤電車なら怒るだろうが。
白い車両は下関行き,黄色が新山口の電車、色は同じでもスムースで山陽本線は特急列車がないので待ち合わせもない。特急は新幹線だけ。
岩国から倉敷に乗った電車。
門司港の駅のホーム屋根も昔のレールを使ったものでレトロを感じる。赤レンガなどでレトロを演出している街の風景に目立たないようにコンビニも色を変えているのが良い。
岩国から錦川鉄道のわずかな駅数だがかなり難読駅が多い。
椋野(むくの)行波(ゆかば)など。
今回行ったお城、日出城(ひじ)ようこく駅は暘谷駅。知らなければ読めない。
豊後竹田駅の改札、姫達磨がお出迎え。
今回の旅行も時刻表を関係のページだけ破いて持って行き老眼鏡で確認をしていたが今は大半の人がスマホやそれのタブレットで調べている。
やはり時刻表でしか安心できない時代遅れと言われてもアナログ人間がで良いと思っている。旅に出る列車に乗る時刻表を見るこれが旅の醍醐味だと思っている。行は飛行機だったが帰りは1200k以上乗り降りたりで帰宅。
今月は当然桜、お花見などがメインテーマになっています。
桜の後ろは企画展の平成館。
秀句合四季之花・桜 勝川春潮紅嫌いで派手な色を使っていない。今で言うと白黒フィルムの粋な感じ。 鳥文斎栄之
鳥文斎栄之と歌麿が良く区別が未だに出来ない。
東都名所・吉原中之町夜桜、北廓月の夜桜 吉原では桜の移植をして大門から中之町まで桜を植えていた。
北斎の舟中より桜の枝折 スケッチかと思う図
溪斎英泉の花月案内・飛鳥山桜
歌川国芳の山海愛度図会・花をご覧あそばせ
桜下遊女図 二代目豊国
喜多川歌麿の三囲花見
鳥文斎栄之の金龍山桜花見
庶民の春を待ちわびた宴として浮世絵は桜の図柄が多い。
今月の絵は最近買った須貝秀和氏の桜満開の千鳥ヶ淵を描いた作品です。須貝氏は若い作家ですがこの人の描くほのぼのとした絵が好きで7,8点購入している。
彼の描く作品では東京の絵は初めて購入した。まだ桜は散っていなく満開なんだろう。私は花筏の風景が此処では好きです。ボートをアベックで楽しんでいます。
昔若い頃崖っぷちの桜の木々の下で抱き合っているアベックにおろおろした事が思い出されます。
この所毎年東京国立博物館では「博物館でお花見を」と言うタイトルで美術品の桜を描かれた作品を展示しています。勿論庭園では本当のお花見も見られます。
国宝室では狩野長信作花下遊楽図屏風 400年前のお花見の様子が見られます。
宮廷の美術では重要文化財の月次風俗図屏風、この作品は写真が✖で撮れません。
7室の屏風と襖絵コーナーでは伝土佐光則筆の源氏物語図屏風(若葉上)御簾から猫が飛び出し柏木が女三宮を目撃。
8室暮らしの調度では仁阿弥道八作色絵桜楓文木瓜形鉢、雲錦手という桜と楓を合わせたもの。
10室は浮世絵コーナーで別に載せます。
11室は彫刻で不動明王像ですがこの像は桜材を使っています。
18室は近代の美術では木島桜谷の筆「臘月桜花」臘な月の光を受けた白い桜が輝いて春の情景を出しています。
この他にもまだあるのですが勉強不足で中々良く解らない。
今回スタンプラリーがあり各コーナーを回らずを得なく頑張ってみました。ご褒美は桜の小さなバッチを戴きました。
博物館の帰りに増上寺に線香立の灰と御朱印帳を戴きにJR浜松町駅から降りました。本日は御祀りがあるようで多くの人出がありました。
灰は残念ながら金の粒しかなく帰りに仏具屋さんで購入。前回の旅行で御朱印帳は終わったので此処で購入。また新たに御朱印集めが始まります。
今日は日曜日ではないですが歴代の将軍のお墓も公開されています。今日は何度も見ているので境内の震災復興の売店で三陸ワカメや小魚のつまみなどを購入。
博物館では昼食が取れなかったので更科でお蕎麦を戴いて帰宅。途中、秋田屋が開いていれば焼き鳥が食べたかったが2時だったので残念。ここの特製つくねは美味しい。
平日なのに上野の山は花見の人で改札も大行列。しょうがなく中央口に廻って東京国立博物館へ向かう。博物館も花見ができます。裏の庭園が見学できます。元は寛永寺の境内で現在の博物館のある場所は本坊に当たりこの庭園も寛永寺の庭だった。春と秋に庭園内開放があります。
庭園内には茶室が幾つかあります。春草盧は江戸時代の物で色々廻って横浜の三渓園の原三渓が松永安左エ門(耳庵)に贈った物でその後寄贈された茶室。
転合庵は小堀遠州が桂宮から茶入れ「於大名」を賜った折、その披露の為に京都伏見の六地蔵に建てた茶室でその後大原寂光院に移築され茶入れと共に博物館へ寄贈。
六窓庵は慶安年間奈良の興福寺慈眼院に建てられたもので明治8年に博物館が購入したものだそうです。
この他に応挙館、尾張の天台宗明眼院の書院として1742年に建てられたもので増田孝(鈍翁)邸内に移築されていた物を博物館に寄贈。円山応挙が明眼院に眼病で滞留していた際に揮毫したと伝えられ松竹梅を描いた床張付と襖絵が残されています。
九条館は東京赤坂の九条邸にあった建物で当主が居室として使っていたもので床張付などには狩野派の楼閣山水図が描かれています。昭和9年博物館に寄贈。
回遊庭園で春は桜、秋は紅葉など四季折々の木々、花々が咲いています。
小倉城
別名 勝山城、指月城
構造 輪郭式平城
天守 連結式層塔型4重5階(非現存)
1959年RC造 復興天守
城主 細川、小笠原氏
遺構 石垣、堀
再建 天守・櫓、庭園
4重5階の大天守と1重の小天守からなる。最上階は雨除けの為に雨戸でが下層よりも張り出している南蛮造り。元々は破風がなかった。
細川氏は肥後の国に栄転したが小倉城に愛着を持っていたようで参勤交代時には1回おきに小倉を通っていたようです。庭園、松本清張記念館もある。
岩国城
別名 横山城
構造 連郭式山城
天守 複合式望楼型4重6階
1962年RC造
城主 吉川広家
遺構 陣屋、石垣、水堀、空堀
杵築城
別名 木村城、勝山城
構造 連郭式平山城
天守 不明 模擬天守が1970年築
独立型望楼型3重3階 RC造り
城主 木村頼直
城主 木村、前田、杉原、細川、小笠原、松平氏
遺構 石垣
此処も元は大友領だが改易され細かいお城に分割された。此処からの天守からは四国の佐田岬まで見える。城自体も小高い丘にあり武家屋敷が並ぶ勘定の坂、酢屋の坂などが景勝地になっていて勧められ坂を上ったり下ったりと歩き回った。
バスでJR杵築駅に向かうがバスが来ずタクシーで駅に向かうが列車の便が良くなく結局特急ソニックに宇佐まで乗る。
宇佐神宮
全国の八幡宮の総本宮で九州場所では横綱土俵入りも行う。出雲大参拝の仕方は出雲大社と同じように2拝4拍手1拝、行は宇佐駅から長い間待ってバスで行ったが帰りはバスの便は1時間に1,2本で結局タクシーでJRのつなぎも悪く中津までも特急ソニックに乗った。1時間に普通は1本、特急は2本と言うダイヤになっている。
バス停から10分は歩き本宮へ3つの神様が祀っている御殿を参拝。しかし伊勢神宮と同じように外宮も廻らないと片手落ちになるようで廻った。
杵築城での坂もあり足が棒になったが今日はもう一つ中津城も攻め入らなくてはならない。駅ホームから向かい側の山にハリウッドのようにUSAと言う看板が見える。
中津城
別名 扇城、丸山城
構造 梯郭式平城
天守 元々なかった
模擬天守 1964年RC造り
独立望楼型5重5階
城主 黒田孝高
城主 黒田、細川、小笠原、奥平氏
遺構 石垣、堀
黒田孝高が築城し細川忠興が完成、江戸時代の大半は奥平氏。堀には海水が引きこまれているので今治、高松と三大海城とも。本丸上段北面石垣にある継ぎ目があり黒田孝高の石垣は九州最古と言われている。
駅から大したことがないと歩いていたがこの所方向感覚も悪く、前に来たという事でこの道だと思い込みが激しく途中迷子になる。
右が黒田、左が細川時代の石垣。地盤が弱いので犬走が。
城の外観を1周して海側まで見て足が棒になりながら小倉駅に向かう。杵築城、宇佐神宮で疲れているのに余計疲れたし足が帰りは引きずるように電車に乗って小倉駅に向かった。
昨日はママリンが予定もなく何故か小田原へ行こうと誘われお城に桜も良いかと東海道線に乗った。
小田原は桜祭りもやっていて多くの人がお城に向かっているが途中の桜はまだ蕾だけ。何故か海に行こうと人があまりいない海辺に。文学館、有名な人の別荘など開放している屋敷を見る。
お城に向かい骨董市(フリーマーケット?)、おでんサミットも開かれ全国のおでんが集結。しかし大勢が並んで食べられない。ママリンはイタリアンを案内したかったようだが混んでいた。途中古そうなそば屋で美味しい蕎麦を戴いた。干物や桜葉塩漬け、生しらすの塩辛をお土産で購入し帰宅。
桜はほんの少しだけで帰宅したが今日の新聞では東京は満開の記事が載っていた。東京と神奈川は同じかと思ったが靖国神社、上野公園は満開との事。しかし家の近くは未だ2・.3部咲きだが。
府内城
別名 大分城、荷揚城
構造 梯格式平城
天守 非現存
築城 福原直高
城主 竹中、日野根、松平氏
遺構 櫓2棟、石垣、堀、塀
再建 櫓、門、屋根付き廊下橋
屋根付き廊下橋。
九州平定後備後国は大友宗麟の子大友義統の領で有ったが朝鮮役で軍令違反で改易、三成の娘婿福原直高が12万石で入城、関ケ原後は竹中半兵衛の従妹重利が3万5千石、その後日野根氏、松平氏で明治を迎える。今は海城のイメージはない。城の別名や住所で船で荷揚をしたところという名前だけが残っている。
地盤が弱いので堀の石垣には犬走が設けている。近くにザビエル像が。
別名 臥牛城、豊後竹田城
構造 梯格式山城
天守 不明
築城 緒方氏
城主 志賀、中川氏
遺構 石垣
雨の日の攻め入った、当然私一人で途中の坂のお土産屋では大きな音で荒城の月が流れている。ぐるっと高石垣が巡らせている。西の丸のは礎石が残っている。各郭を見乍ら昔をしのぶのはこういう石垣だけの方がなまじ債権の建物があるより潔い。
後で書くが滝廉太郎に拘らず此処では城の麓の日露戦争での第一号になった軍神広瀬中佐を祀る広瀬神社、田能村竹田の方が良いのにと思う。
構造 複合式層塔型3重3階
非現存
城主 木下延俊
遺構 移築櫓、移築門、天守台、石垣
大友配下の大神氏の拠点、朝鮮役で軍令に背き撤退した大友義統改易後豊臣家臣の毛利重政が城代に、慶長7年初代藩主として木下延俊が入城、義兄の細川忠興の支援で築城。木下家は豊臣秀吉の正室ねねの実家で関ケ原では東軍に属した。此処にも滝廉太郎の像がある。瀧家は代々家老職を務めていた。
此処では海から真水が湧くようで有名な城下かれいがある、
荒城の月は岡城となっているが城マニアでは作詞が土井晩翠でイメージは仙台青葉城、会津若松城、幼少期を過ごした富山城とも言われている。
作曲家滝廉太郎は東京生まれで父の仕事の関係で東京から富山、東京で15歳で今の東京芸大に入学、ドイツに留学するが肺結核で帰国。23歳で大分府内町で亡くなる。墓は日出町に。父の実家は竹田にあり今回の3つのお城に相互に関わっている。
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